「んなわけねーだろ。」
これが彼の口癖だった。彼は無口で、誤解されやすいところがあった。コンビニで雑誌を立ち読みしていて、同僚の一人が声を掛けてきたときのこと。
「えっ、おまえそのアイドルのファンなの?」
「んなわけねーだろ。」彼はそう言うと雑誌を元に戻した。いわゆるアイドルには、それほど興味が無かった。自分のことを滅多に人に話さないため、周囲は彼に対して勝手なイメージを抱き、ふとしたことに興味を示した。
「ただ眺めていただけだろう。それがそんなに特別なことか?」彼はうんざりしていた。
「いや、別に。」その同僚はそれだけ言うとレジに向かった。
自分のことを語ることも、語られることも嫌っていた。そもそも、語っても周囲は彼が何を言っているのか、理解を示すことも少なかった。彼は変人だった。
周囲の勝手なイメージに対して、いちいち修正することも面倒に感じていた。それ自体、相反するようなレッテルがいくつも貼られていた。女好き、ゲイ、自分勝手、優しい、無口、話しやすい、カッコいい、気持ち悪い等々。挙げ始めるとキリがない。一つだけ言えることは、彼は自分という人間を周囲にどのように伝えるのかに関して、まったく無関心だった。その上、場当たり的で気まぐれであり、空気を読むという行為が嫌いだった。空気を読めないのではなく、その場で醸し出される空気に従うことが嫌だった。
一方で彼は実際、かなりの部分で、いわゆる”普通”の人間だった。人並みに女性に興味があり、人並みに話が通じ、人並みに自己主張をし、人並みに容姿に気をつけていた。他方で、すでに貼られたレッテルは、おそらく彼が思うよりずっと前から先行していた。普通に振る舞えば振る舞うほど、周囲の猜疑心を煽ることになった。それだけでなく、彼が”普通”な言動を心がけても、やはり人間には個々に様々な個性がある。特に彼の精神的また身体的な個性は、いささか強烈なものであり、その目と頭脳には特異な特徴があった。ここでその詳細には触れないが、それは人々の猜疑心を正当化するのに役立っていた。
だからこそ、彼はいちいち訂正するのも面倒に感じており、口癖のように繰り返していたのである。
「んなわけねーだろ。」と。

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