人はなぜ舐められる、または誰かを舐める、軽視するということがあると思いますか。そこには一見して、多層的な要因があるというように認められます。そのような多層的な要因には総じて、弱さや愚かさが根底にある、またはそれが根源として集約されるという見方ができます。
たとえば上下関係において舐められるということがあるとして、それは言い換えれば、有する力の関係、つまり弱さだといえるかもしれません。小さな声や目の合わせなさといったコミュニケーションスキルの拙さによって舐められることもあるでしょう。コミュニケーションスキルの欠如とは、言ってみればそれは弱さや愚かさの象徴と受け取られるものです。仮にトラウマなどの心理的背景があるとしても、それが弱さを象徴していると他者から受け取られるということは考えられます。また虚栄心の顕示も、弱さを隠していると受け取られるから、といえそうです。
もう少し例を挙げてみましょう。たとえば、相手からの要望への抵抗のなさや断れなさといったものは、弱さや愚かさの象徴と言い換えることができます。周囲や他者からのラベリングによって舐められたとしても、その許容が弱さや愚かさの象徴と捉えられるでしょう。想定されたよりも低い期待値の提示や、影響力の有無も同様です。
つまり、これらの意見はすべて、その根源にあるのは弱さと愚かさだといえてしまうということです。
しかしながら、私はそうは思いません。なぜなら、弱さや愚かさを持っている人間のすべてが、総じて舐められるというわけではないからです。そこには別の理由があると考えます。
人を舐める原因は、弱さや愚かさではありません。その理由はただ一つのことに集約されます。それは自分が大切にしているものを、その人が明らかに軽視していると受け取ったときです。自分の大切にしているものを軽視している人を見ると、人は舐めたくなるものなのです。だからこそ自己肯定感の無さで舐められ、上下関係において地位の高さを大切にしない人は舐められ、自分の評価を偽る人は舐められ、文化の相違によって舐められることがある、といえるでしょう。一方で、そのような軽視をしない人、相手が尊重するものを軽視しない人が舐められることはないでしょう。弱さや愚かさを抱えていたとしても、たとえコミュニケーションが拙くても、上下関係において下でも、自己評価が低くても、文化の相違があったとしても、皆が総じて舐められるわけではないということです。私はそのように思います。

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