意見や価値観を共有すること、感情を共有すること。共有することが是とされる傾向があるとして、多くの共有は幻想にすぎないのではないだろうか。異なる二者ないしは複数の者の間で何かが共有されるとき、それは誰かが提示したものに対して同意を示すものといえる。それをもって何かを共有していると、はたして本当にそうだといえるだろうか。
何かを共有することにおいて、それは各々が同じ何かを有していると言い換えられる。結論から言えば、これが幻想である。同じ何かを有しているから共有可能なのではなくて、各々が異なるから誰かの何かに共感を示すことができ、それをもって何かを共有したという錯覚を抱いてしまうのだ。
同じ何かを有していて、それを提示するのではない。あくまでもそれぞれの持ち寄ったものに対して、関心や理解を示すこと。これはそれぞれが皆、異なる立ち位置に置かれているから、自分とは異なっていながらも関心や理解を示せる何かがあるからこそ、それらを提示することで共感を得たり、何かを共有できるのである。
関心や理解を通して共感を示すには、似て非なるものでなければならない。このとき、似ているから関心を示せるのではなくて、異なるからこそ、そこに関心を示せるのである。異なっているから、自分とは異なる存在であると信じることができる。自分とは異なっているから、関心や理解を示せるとき、そこに共感という情が生じる余地がある。
共有すること、共感できることというのは、それだけで価値がある。力が湧いてくることもあるだろう。しかし、それは異なっているという大前提を認めた上でのことだ。共有するということは、同じ何かを有しているという結果ではなくて、それを探していく過程にあるのではないだろうか。

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