学ぶということ

学びと成長

最後にたった一つだけ。学ぶということについて考えていました。人はなぜ学ぶのか?それは自らの無知の克服のためでしょうか。それとも社会に生きる上で必要だからでしょうか。無知の克服をいうのであれば、学ぶことには際限がありません。確かに人生における学びに明確な終わりはないでしょう。しかし、そうではなくて、もし無知の克服のためをいうのであれば、学ぶことは何でもよいともいえます。つまり、そこにどのようにして必然性があるのでしょうか。社会に生きる上で必要だからというのも、学びの時点でその必要性が必ずしもわかるわけではありません。知らないから学ぶのでは、無限の対象があり、選ぶ軸がありません。必要だから学ぶのでは、その必要性を未来の不確実性のなかで判断することは難しい。

私はおそらく、こうではないかと思ったのです。学びとは、空白を埋めようとする、他者との共同作業だと。あらゆる存在は存在の有と無、または存在の自己と他者でできています。つまり、私と、私以外の誰かや、何かです。私という存在は、私以外の誰かや何かがあるから、私としていられるということです。この世界に私以外のものは何もないとしたら、すべてが私という存在で埋まっており、そこには誰もいないばかりか、空気に満ちた空間すらもないということです。もちろん、そんなことはありえません。

学びが空白を埋めようとする他者との共同作業であるとき、この空白とは自分という人間以外のすべてです。空気に満ちた空間のみならず、その空間内にある人、物のすべてです。この世界を部分的に満たす私と、私で満たされていない部分、それが空白です。

学びとはこうした空白への働きかけであり、またその空白を埋めようとする作業ではないでしょうか。それぞれがそれぞれの空白を埋めようとする。しかし、私と私以外の誰かにはそれぞれの輪郭があります。仮にこの作業が独善的で単独によるものであれば、それは私という自己の拡張にすぎません。一方でこれが共同作業となれば、それはコミュニケーションとなったり、学問となったりする。

この空白を埋めようとする行為が他者との共同作業を伴うとき、私という人間は存在の輪郭を形作るのです。それは対話などのあらゆる人との交流であったり、衝突だったりします。または家畜やペットなどの動物との交流かもしれません。私以外の存在に触れ、またそうした存在からのなんらかの応答があることで、私達は自分の心の動きを知り、または他者の心の動きを知ることができる。会話はそうした営みの代表格でしょう。

この作業はたんに何かを共有するということではありません。何かを共有するというのは事後的な結果です。一方で共同作業とは、共有するものがなくても可能です。もちろん空白を埋めようとするという共通の目的はあります。しかしそれは意図的に共有された目的ではなくて、空白への働きかけという必然性です。何かを共有するためではなく、共有または共通する何かがあるから、必然として生じる共同作業。それは存在としての不完全性、つまり空白の余地から来るものであり、だからこそ、学びとは生きることに直結する営みではないか、ということです。

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