現代の国際社会では戦争や貿易摩擦、国内社会では貧困や差別など、ニュースを見れば日々、不安の種が蔓延っている。そのような不安の種を無くそう、または減らそうと多くの人達が願い、平和で安心して生活できる社会を目指して奮闘する。
そのようななかで思うのは、平和というものがはたして本当に実現可能なものなのか、ということである。ここでいう平和とは争いの無い社会である。戦争や貿易摩擦が争いそのものであることはもちろん、差別や貧困は争いの種になるものである。
平和とは争いの無い社会のことではなくて、争いが起きる時に対策を講じることができる社会の状態のことではないだろうか。平和とは、それがなんであれ、平和ではない状態があるから平和を目指したいと思うものではないか。戦争が起きれば戦争の無い状態を願い、貿易摩擦が起きれば摩擦の無い状態を希求する。貧困や差別そのものが必ずしも争いを示すものではなくても、そこには格差や憎しみが生じ、争いを引き起こしかねないものだろう。
これらの争いがまったく無いに越したことはない。戦争が無いに越したことはない。貿易摩擦も無いに越したことはない。貧困や差別だってそうだろう。しかし戦争を無くせば、人の血が流れることがないわけではない。テロや殺傷事件などで人の血が流れることはあるだろう。また、貿易摩擦を無くせば貿易が滞りなく進むわけでもない。貿易摩擦とは貿易上の取引によって不均衡な利益が生じることであり、それは貧困や差別と同種の問題を孕む。貧困とは生活上必要な最低限の物資を入手することが困難な状態であり、特に衣食住に関わるものである。差別には主に男女間における性差別や、異なる人種間における人種差別がある。これらの貧困や差別を無くせば格差や憎しみがなくなるわけでもない。
貿易摩擦が貧困や差別といった問題と同種の問題を孕むというのは、これらの諸問題が構造的不均衡による格差というところに収束されるからである。さらに貿易摩擦によって一部の国や産業が恩恵を受け、それ以外の国や産業が取り残されれば、国対国、または人対人という対立が生じる。それはまた、新たな貧困や差別の温床となりうる。
こうした構造的不均衡は常に存在する。一つの問題を解決したとしても、それは形を変えて現れ、様々な不均衡や格差、そしてそこから生じる分断や憎しみがある。だからこそ、争いの火種が生じるその時に、それとどのように向き合い、どう解決しようとするのか。そのような姿勢がより一層求められるのではないだろうか。

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