旅行に行く前日、私はサボテンに水を与えた。長らく与えていなかったため、それは大きく傾き、今にも倒れそうだった。サボテンに水を与えることはおろか、近頃の私は自分の身の回りの世話さえ、やっとの精神状態だった。砂漠に佇むサボテンのように灼熱のなかで、渇きに耐えるかのようだった。
サボテンは渇きに強い。だがその強さにも限界はある。人間の身体はサボテンほどの渇きに対する耐性はない。一方で、その精神はどこまで渇きに耐えることができるのだろうか。人がその心に渇きを感じるときと、サボテンが渇きに飢えるときの共通点は、孤立することにあるだろう。サボテンが水を欲するように、人は人との交流をなんらかの形で必要とするのではないだろうか。人間の精神にとっての渇きとはおそらく、人との関わりのなさではないか。
人との交流によって、人は自らの精神の居所を確かめることができる。それは他者の心の反応を、自分の心で受け止めることによってである。たとえば誰かに手料理をふるって、それを食べた者の感想を得られるとき、また聴衆に楽器の演奏を聴かせた後に、彼らから拍手を受けるときなど。もっと日常的には、会話によってだ。自らの話を聞く誰か、応える誰か。会話が心の対話であるとき、両者ともに心の潤いを得ることができる。自分が話すことで誰かが聞き、それから応答を受ける。今度は自分が聞く側に回る。このように互いに心の反応を得ることで相手の心を確かめると同時に、自らの心の居所を見つけ出したり、確かめたりする。
私はこのような会話が酷く苦手だった。それは私の言語に対する感覚が、他の者と比べて独特であり、非常に異なるものだったからかもしれない。ここでその詳細には触れないが、そうした意味で、私の心と対話できる者は稀有だった。これまで私にオアシスを与えてくれた者に対して、ここに謝意を示したいと思う。

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