皿に残った、ひとかけらのクッキー。それは彼らが共に過ごしていたことの、最後の名残りだった。
彼は生涯独身だった。同じ時を過ごす人達は一人、また一人と減っていた。目の前に置かれたひとかけらのクッキーは、その最後の一人が残していったものだった。傍らには、まだ湯気の立つコーヒーが添えられたままだった。
彼は自らの心情を言葉にできなかった。欠けた感情に添えるべき言葉が見つからないようだった。震える手で飲みかけのティーカップを持ちながら、それをソーサーに置きかねていた。そこにはすでに誰もいなかったが、カップを置くことで、その事実を認めてしまう。それを拒むかのようにカップの取っ手を必死で握っていた。手の力は限界に達し、もはや力の加減もできなかった。爪は指に食い込み、流血し始めていた。
すると彼の握力に耐えかねたカップの取っ手が、ポキッと折れた。彼は叫びながら落ちたカップを拾おうとした。
「おい、お前またカップを落としたのか?」見上げると父が母を叱っていた。
「えーごめんなさい。手が滑っちゃった。」母があっけらかんと答えた。
「お兄ちゃんがそばでうろちょろするからでしょ。」妹が口を挟んだ。
「ごめん。だってクッキーを早く食べたかったから。」彼が答えた。
「もう。最後のひとかけらなんだからね。自分ばかり欲しがっちゃって。そんなに食い意地張ってると、誰にも好かれないわよ。」母が彼を叱った。
彼は震える手でクッキーを掴むと、それを口にした。涙と血でしょっぱく、鉄のような味がした。割れたカップを手にぶら下げながら、ソーサーを探した。目の前にあるはずなのに、彼には見えていなかった。いや、見ようとしていなかっただけかもしれない。その手にしたカップに、添えるべきソーサーが見つからないかのように。

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