沈黙と語り

言語・表現論

私は戦うことをやめていたのかもしれない。己の無力さを幼い頃に知ってしまったからだろう。ただ、一人で声を上げることの無力さを、その威力を知る前に思い知らされていた。

戦うことを諦めたわけではなかった。沈黙することによって抗ったつもりだった。しかし、どのような行為であれ、語りから逃れることはできない。その意図や形式を問わず、身体を持っている限り、いかなる行為も語りに還元される余地がある。私はその呪縛から逃れる唯一の方法として、沈黙を選んだ。

その一方で沈黙とは、自らの語りの不在でありながら、広大な余白でもある。つまり、その余白を他人が彼らの語りで埋めることもできてしまう。

それでも私は、沈黙を選んだ。たとえ自らの沈黙を他人の語りで埋めつくされても、そこにあるものは雑多な複数の視点の混在である。それはどこかで疑念を生じさせることを私は直感的に知っていた。語りを語りと感じさせるには、その声にある種の一貫性がなければならない。そうは言っても、沈黙とは結局、語りがあるからこそ、空白があるとも言える。語りに無力さを感じる時、そこで選ぶべきものは沈黙ではなくて、語りを重ねることだったのかもしれない。

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