白紙の本

掌編小説

そのとき、私は前を見たはずだった。しかしおそらく、私の目に映っていたのは後ろだったのだ。手元に残った、その絵が描かれた本だけが、その体験を物語る唯一のものだった。

その本は文学フリマで見つけたものだった。文学フリマとは著者自らの手で読者に自著を届けるための催し物だ。自著はそれが文学だと自ら信じるものであれば、原則何でもよい。

私は先日、東京ビッグサイトという会場で行われた、その催し物に行ってきた。東京ビッグサイトは正式には東京国際展示場といい、あらゆる展示会などの催し物を行うことができる建築である。四つの逆三角形が支える会議室が宙に浮き、地上から見上げるものの視点を揺さぶるような建築だった。それは私がこれから直面することになる体験を象徴するかのようだった。 

私は東京ビッグサイトに行くのも、文学フリマに行くのも初めてだった。その日は乗る電車を間違えてしまったため、会場に着いた時には閉場まであと三十分しかなかった。会場はとてつもなく広大であり、三十分で全てを見るのはとても無理だった。興味のあるジャンルのところを見ようと思い、私は辺りを見回した。そのとき、あることに気づいた。

各ブースを見回ってみると、ブースは確かにジャンル別に分かれている。しかしその区画を示す看板などの掲示がないのだ。一つ一つ歩いてみて、初めてわかる。これはまさしくフリーマーケットの様態だった。皆が思い思いに集まり、自由に売りたいものを売る。文学フリマは、既得権益化した日本の主要な出版業界に対抗するものとして開催されたものと聞いていたが、これはまさしく、その精神を示す一端なのかもしれない。

私はあらゆるブースをできるだけ早く、ゆらゆらと覗き込んでいた。すると列の一番端に陣取った、一つのブースが目に入った。多くの参加者が、あらゆる装飾で自らの作品を展示している中で、それは他のブースよりも一段と控えめで、人も老人が一人いるだけだった。

「お若いの。何かお探しかな?」老人が私の視線に気づいたようだった。

問いかけられて、私は自分がなぜそこにいるのかを一瞬、忘れてしまった。言い淀んでいると、その老人は続けて言った。

「試しにこれを読んでみないかね。君の視界も一変するだろう。」

私は渡された本を受け取って開いた。

「これはーー?」私はギョッとした。

そこには何も書かれていなかった。白紙だった。思わず後ろにのけぞって本をつっかえそうとした。そのとき、私は再びギョッとした。目の前にいた老人も、老人のブースも無くなっていた。あるのは全く別のブースで、別人の若い青年がこちらを疑わしそうに凝視していた。

「見て行かれますか?」その青年は私の様子を伺いながら尋ねた。

私は持っていた本を見た。白紙の本だった。確かに手にある。夢ではなかった。もう一度開いてみても、何も書かれていない。その青年に老人のことを聞こうと顔を上げると、私はあっと叫んでしまった。

目の前には老人と、そのブースが再び現れていた。

「なんで?一体どうして?」

老人は微笑を浮かべながら私に言った。

「後ろを見てみなさい。」

後ろを振り返ると先ほどの青年がこちらを不思議そうに見ていた。

「どういうことですか?一体どうして?」私は狼狽えながら老人に尋ねた。一歩たりとも足を動かした記憶はない。すると老人が答えた。

「それが本であり、文学というものだろう。前だと思ったものが後ろに映ったり、後ろだと思ったものが前に映ったりする。そうは思わないかね?」

私はどう言い返せばいいか、よくわからなかった。だって、こんなのインチキだ。本だって、中身は白紙だ。手に持っていた本をガッと開くと、愕然とした。そこには手を振る老人が描かれていた。私はすぐさま顔を上げた。その老人のブースは忽然と消えていた。辺りを見回し、会場中を探した。しかしそれきり、そのブースを見つけることはできなかった。

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