そのとき、私は眼鏡をかけなくても辺りが見えるような気がした。自らの創作、またそれだけに限らず、言語表現全般において重視してきたことを言語化できた瞬間だった。その日は目覚まし時計の音で目が覚めると、朝焼けの日光がカーテンの端から滲み出ていた。眼鏡を探したが、近くに見当たらなかった。まだ眠気で頭がはっきりとしない。昨夜は遅くまで、かの著名な哲学者であるウィトゲンシュタインが残した言葉について、気になって調べていた。そのため床に着く時間が遅かった。
ウィトゲンシュタインは、彼の言う「事実」ないしは世界の状態を記述することに関して、論理的関係によって記述可能なものを意味のある記述とし、それ以外を意味のない記述とした。言語による記述には限界があり、その限界を超えて記述すると、意味のない記述となってしまう。だから彼は、次の言葉を残したという。
「語りえぬことについては、沈黙せねばならない。」
語り得ぬこととは、世界の「事実」に関するものではない領域であり、倫理、宗教、芸術、美、人生の意味といった、人間という存在そのものに関わる領域だった。
私はここまで知って、彼が文芸という言語表現について、どのように考えていたのかが気になった。彼にとっての意味とは?語るとはなんだったのだろうか?少なくとも、それは言語による行為によってのみ、直接的に示唆されるものではないように思われた。
私にとって、この言葉はそれが唱えられた背景に関わらず、共鳴を覚えるものであった。
しかしながら、彼は自らの言う語りえぬことについてたっぷりと論じ、また言及していたように思える。彼の言葉の真意は、「それは語っちゃいかんから黙らっしゃい。」ということではなくて、むしろ、それでもなお、語りたい。いや、語らざるをえなかった。語ることで偽りになる“それ”に直面して触れた時、それにまったく言及しないことは、“それ”自体がなかったことになってしまう。語らぬことで、なかったことにはどうしてもできない。一方で語ることは“それ”を偽りに、またはナンセンスにしてしまう。その矛盾に抗おうと、語りえぬ“それ”の輪郭をなぞっていたのだろう。
私が共鳴を覚えたのは、その語りえぬことの周縁をいかに語るかであった。私は自身の筆致において、語ることにおける妥当性の有無を問おうとしてきたように思う。たとえば、ある視点からある人物の心情を語ることは妥当なのか?妥当ではないか?いかにして妥当にするのか?特に妥当ではない場合、それをいかに表現するのか?その周縁を探ること。それは語りえぬことに対する敬意である。しかしそれが深いものを示すのか、またはそれこそが大事なのか?少なくとも私にとって、語りえぬことの表現は、語りの妥当性の有無を問うものであって、それ以上でもそれ以下でもない。そして、これらのことは表現の限界を示唆するものではなくて、むしろ可能性を広げることだと、私は思う。
ここまできて、私はやっと眼鏡を見つけた。いつも眼鏡をかける時に感じる違和すらも、少し取り除かれた気がした。

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