誰かの地図

人間関係・恋愛

誰かが落とした地図が、どうしても捨てられない。俺はそれを電車のなかで拾った。あれはアルバイトからの帰宅途中、雨でずぶぬれになりながら、駅に駆け込んだ時のことだ。目の前をスラッとした女性が歩いていた。ノースリーブに短パンを履いた、金髪のお姉さんだった。身体の上下に異なる双丘を誇らしげに携えていた。

俺はいつの間にか、その大きな丘に魅せられて、自分の帰路とは反対方面のホームに行ってしまった。不思議と頭がボーッとしていた。その高き丘で頭がいっぱいになり、気づいたら彼女の後ろに陣取っていた。そのまま五分くらい過ぎただろうか。電車がホームに着いた。ふと見上げると、今度はうなじに目が吸い寄せられた。ポニーテールから垣間見える肌は、雨でしっとりと濡れていた。電車の扉が開いた。そのとき、俺のなかの何かが開いた。お姉さんの足取りに釣られるように、俺は乗車した。

お姉さんはカバンを座席上の荷物棚に置くと、扉の傍の座席に座った。俺の視線が今度はその豊満な夢を描いた曲線に注ぎ込まれた。俺は油断した。人混みに押されて、そのまま車内の反対側まで流された。俺は悶々としていた。彼女の身体が見えそうで見えない。乗客の間から必死に、しかしできる限りさりげなく見ようとした。ギリギリ見えるのは彼女の顔と、隣で談笑しているおばさんだった。そのおばさんのスーツケースが邪魔で、他の乗客が俺と彼女の間に立っていた。しかし俺は諦めなかった。すると彼女と俺の目がふっと合った。俺はドキッとした。彼女の目が俺の目から下へと移った。そのとき、電車の扉が再び開いた。彼女の目が下から俺の目を再び見た。そして、小さくフッと鼻で笑うとカバンを持って下車してしまった。俺は絶望した。あとを追いたい。しかし、おしくらまんじゅうの乗客が許さなかった。彼らは彼女に続いて、その狭い出口から押し合いへし合い電車を降りた。俺もなんとか続こうとすると、扉はピシャリとしまってしまった。

車内にはほとんど誰もいなくなった。俺は一人、茫然と立ちすくみ、彼女が去ったあとの座席を見つめていた。そのとき、パサッと何かが落ちてきた。それは地図だった。俺はそれを反射的に拾った。雨でしっとりとしめっていた。まさかと思い、俺はそれを勢いよく広げた。地図はパリの地図だった。

それ以来、俺はアルバイトに今までよりも打ち込むようになった。いつの日か、あの誇り高き双丘を上るためだ。いや、もしかしたらあの隣のおばさんのかもしれないのはわかっている。しかし、俺はどうしてもそれを捨てられないのだ。

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