世界と人間世界 ー 序章

世界と人間世界

序章 私という人間
第一節 生前の記憶
二十世紀も末の頃、地球という星のとある地で、私は生を受けた。
ほかの人たちと同様に、その時の記憶を持っているわけではない。
だが、生まれる前の記憶、またはそのように思われる記憶を、私は持っている。
生まれる前、私は暗闇の中にいた。
そこには私のほかに少なくとも四人の声があった。
そのうちの二つは私の兄と思われる若い声で、残りの二つは、両親らしき者の声だった。
この四つの声は今の家族のものではなく、暗闇の中にいたときの家族である。
その暗闇はすべてを覆い隠し、その声を聴くことでしか、彼らを認識することはできなかった。

私はある時、光になりたい、または光のあるところに行きたいと願うようになった。
兄たちは、すかさず嘲笑した。
暗闇に住む者が光のあるところに行けるはずがない。
ましてや、光になりたいなどとは全く馬鹿げた発想であると。
父は、最初は難色を示していたものの、その願いは全く不可能ではないかもしれないと言った。
その暗闇の中において一番若い私は、そこに行ける可能性があるとのことだった。
ただし、かなりの痛みを伴うであろうということも。
私は、それでも行きたいと言った。
どうして我々は暗闇にいなければならないのか、大いに疑問を持ち、それをそのまま父にぶつけた。
父は、それが私たちの務めであり、暗闇があるから光があるのだと教えてくれた。
どこか怒っているような声だった。
それを聞いた時、私は自分に嫌悪を覚え始めた。
暗闇にいるのではなく、暗闇自身であったということに気づいたからだ。
父の答えに絶望を覚えると同時に、光への憧憬を一層強めた。
どんなに苦しくてもよいから、とにかく光になりたい。
暗闇が光になったり、光が暗闇になったり。
そのような流動性があれば、世界はもっと自由になるはずだと考え、父にそう伝えた。

すると父は、君にそのような覚悟があるのなら、行ってもよいと言った。
いったいどこに、どのようなところに行ったら光になれるのかと、私は尋ねてみた。
答えは、人間になりなさい、とのことだった。
人間はそのような流動性を持ちうるからだという。
地球という星の、西暦二〇〇〇年頃の人間界において、その世界の変わり目があるから、そこでその頃に生まれなさいとのことだった。
その時にその場所で、いったい何が起こるのですかと聞いてみると、父はただ一言、戦争が起きる、とだけ告げた。
戦争とはなんですかと聞くと、同族同士の殺し合いだと言うのだ。
なぜそのようなことが起きるのか、なぜそのようなことを知っているのかを続けて問いただすと、兄たちが笑いだした。
お前は暗闇がなんのためにあるか、自分自身がなんなのかわかっていないのかと、兄たちは蔑むように言い放った。
父の声のほうを向くと、お前にこのような話をするのは早すぎたと、苦渋に満ちたような声が返ってきた。
私は、行きます、そして戦争を止めますと宣言した。
兄たちは笑いながらも怒りに満ちた声で怒鳴り始めた。
暗闇の役目の一つは破壊なのだと。
破壊を担う我々が、どうしてそれを止めようとするのかと。

暗闇のどこに破壊があるのでしょうかと、私は言い返した。
暗闇はすべてを覆い隠し、破壊など見ることもできないのではないでしょうか、光に照らされて、はじめて破壊が見えるのではないですかと主張した。
兄たちの声から笑いの含みが消え、それは言ってはいけないことだと呟いた。
その声は何かに怯えているように思えた。
父は私に言った。私たちは全てを覆い隠す、それには破壊も含まれているのだと。
すべてを飲み込み、無に帰する。
それも破壊の一種なのだと諭すように述べた。
なるほどと私は父の意図を理解したように思った。
私が戦争を止めることで、暗闇から光になれということですね、と聞いてみた。
すると父は、切羽詰まったような声で私に、そんなわけがないだろう、お前は何を考えているのかと、兄たちと一緒に囂々と非難し始めた。

突然、それまで静かだった母が、両方ともやめなさいと私たちに言った。
母の声は、普段はか細く、消え入るような声だったが、この時に限っては、はっきりと聞こえる大きな声であった。
この子はまだ幼いのだから、そのように真っ向から対立することはないでしょうと、父と兄たちに言い聞かせた。
私には、お前も身の程をわきまえなさいと言っただけだった。
その声が、どこか冷たく感じずにはいられなかった。
父は母に言った。
いや、それでもこの子には可能性がある。
二〇〇〇年頃に地球に送り出すと決めたと。
私以外の皆は驚いたのか、黙ったままだった。
私は、もう十年早く生まれることはできませんかと尋ねた。
そうすれば、戦争を止めることができるかもしれないと思ったのだ。
父は怒りながらも呆れたように呻き声を上げた。
お前に言い聞かせるのは無理なようだから、致し方ない、多少前後するかもしれないが、一九九〇年頃に生まれるように取り計らうと。
私の願いは聞き入れられたかのようだった。
安堵したのも束の間、父は続けた。
それでも戦争は起きるぞと。既に今この瞬間、起こりつつあると言い放った。
私は仰天した。
なぜですか、それでは今すぐにでも、地球に送ってくださいとお願いした。
すると、父はこう答えた。
今から生まれることができるとして、おぎゃあと生まれた赤ん坊にいったい何ができるのかと。
いずれにせよ、戦争を止めることはできないし、二〇〇〇年より十年早く生まれても、それは大きく変わらない。
たかだか十歳の子供に何ができるのかと。

私は考えながらも、口を開いた。
では、私の生まれる頃に合わせて、戦争が起きる要因を破壊することは可能でしょうかと尋ねた。
兄たちはひどく狼狽し、また、驚いたように息をのんだ。
父は、ただこう答えた。
お前を送り込むことに決めたと。
しかし、それは戦争を止めるためでもなければ、光になるためでもない、教育のためだと言った。
母がいつもの消え入るような声で、やめて、と言ったように聴こえた。
兄たちは、こいつには絶対無理だよと、半ば呆れ、半ば憐れむように呟いた。

以上が、私の生まれる前の記憶であった。
人間としてこの記憶を思い出したのは、おそらく、四歳くらいの頃だったように思う。
その時、既に第二次世界大戦が終わっており、ソ連の崩壊や、湾岸戦争が起きた後だった。
私が人間となった後の一番古い記憶といえば、おそらく二歳の頃のものである。
現在の父に買って貰ったアイスクリームを、アスファルトの道に落としてしまった時の記憶である。

第二節 善意と悪意
前節で述べた生前の記憶は、私が幼い頃、夢で体験したものである。
これが何を意味するところなのか、私は今も確信を持てない。
しかし、後続の節で述べる、かなり奇異な私の力と立場についての、その根源に関わると思われるものだ。

ところで、私の最も古い記憶は、父に貰ったアイスクリームを落としてしまったときのことだと先述したが、どうやら違うみたいだ。
最も古い記憶は、ヨーグルトを食べるときに母から与えられたスプーンを落としたときだったようである。
アイスクリームを落としたときの自分は、既に自力で歩けた。
しかし、ヨーグルトのスプーンを落としたときの自分は、まだ自力で椅子から立ち上がることもできなかったからだ。

どちらも何かを落としたときの記憶だが、この二つの記憶を憶えている理由には、もう一つの共通点がある。
声のようなものが聞こえたのだ。
「それを落とすな。落とせば、君の人生は困難を極めるだろう。」
これは一言一句同様の言葉ではない。
むしろ、それはほとんど声になる前の何かだった。
その声の圧からか、それとも悪戯心からか、はたまたその両方か。私は二つとも落としてしまった。
それらは、たんなるスプーンとアイスクリームだったのか。それとも、与えてくれた者の善意だったのだろうか。

日常において、悪意と呼ばれるものはなんだろうか。
ゴミを捨てること、誰かの悪口をいうこと、誰かを虐めること、人の物を盗むこと、人を殺めること等々。
これらに共通していえることは、誰かまたは何かの存在を脅かすことだ。
ゴミを捨てるということは、自然やそのゴミが捨てられた場所という存在を脅かし、誰かに悪口を言うなどして虐めることは、その虐められる者の存在を脅かす。
人の物を盗むということは、その所有者の存在を脅かし、人を殺めることは、殺められた者の存在を否定する。

以上のような行為は、各々が互いになんらかの関わりを持って生きる上で、あってはならないものだ。
各々が相互に関わりをもって生きているなかで、誰かの存在が脅かされるということは、その誰かになんらかの形で関わりのある者の存在を脅かすことになる。
このことは関わりをもって生きる上で、等しく同様である。
誰かの存在を脅かすような行為は、悪として捉えられる。

一方で、善意とは、誰かまたは何かの存在を肯定するものだ。
ゴミを綺麗に片付けること、誰かに気を配ること、人を助けること等々。
ゴミを綺麗に片付けることは掃除した場所を肯定し、誰かに気を配ることは、配られた者を肯定する。
人を助けることは助けられた者を肯定する。
存在を肯定するという行為は、注目に値する行為であり、善を為すことはその行為者の存在も肯定する。

善意、または悪意とは、それぞれ存在を肯定、否定することだ。
この両者は、贈与と収奪のいずれかによって為される。
私がスプーンとアイスクリームを与えられたことは、贈与による善意だといえる。
アイスクリームを食べていたり、ヨーグルトを食べるのにスプーンを素直に用いていれば、収奪による善だったのだろう。
だが、それらを落としてしまったことで、私は収奪による悪を為してしまったのだ。

贈与と収奪は表裏一体だ。
贈与する者は、同時に収奪される者でもある。
一方で、収奪する者は、贈与を受ける者でもある。
関わりをもって生きていくということには、両方の関係が必要だ。
贈与するばかりでなく、贈与を受け取ることもまた、大切なことである。
贈与をすることと受け取ることには、ある種の呼吸が要る。
たとえば、贈り物を受け取ったら返礼するなど。
たんに贈与を受けることを拒んだわけではなく、私はこの呼吸が全く上手くなかったのだ。

第三節 感覚の誤差と存在への祈り
平成以前や昭和期の日本人は、誰かの悪事が露呈して社会的制裁を受けたとき、「お天道様は見ているよ。」と言ったものだったという。
これは日本古来における信仰の、自然観に基づくものだ。
お天道様とは太陽のことであり、天気そのものも指す。
気象とは自然の循環の一つの現象である。
雨が降り、地表に降り注ぎ、しみ込んだ雨水は海へと流れる。
地表や海から蒸発した水分は天へ上り、また雨雲となって雨を降らす。

昔の人は誰かの悪事の露呈と制裁を、天気に準えた。
しかし、それはたんに太陽をお天道様として、神様として崇めたからではない。
気象とは自然という一つの体系のなかの循環の顕れであって、また社会における善悪も人間社会という一つの体系のなかの顕れだ。
人間社会も、自然という一つの体系のなかで起こる一部だろう。
世界は連綿と繋がっている。
天気と人間活動も例外ではない。
人間活動が活発になれば、そこでの熱の移動は活発になり、水分の移動も促進される。
雨が降り、雨水が地中や川を通じて海へと還るように。
海水や地上の水分が蒸発し、雨雲となってまた雨を降らせるように。
どこかで変位があれば、別のどこかで変位が生じる。

私は生まれてほとんどすぐに、非常に奇異な力と立場を得た。
この力と立場は、刹那の語りと、それに続く長い沈黙によって形成されたものだ。
刹那の語りとは予知のことであり、主に戦争や経済危機、自然災害などに関してだった。
端的に言えば、自然という一つの体系における循環と、人間社会という一つの体系における循環を、直観的に比較して参照するというものだ。
この時点では、私は行為者ではなく、観察者だった。

しかし、予知をもって語るという行為は、私の観察者としての立場を行為者に転じさせた。
人間社会が自然における一つの体系であるとき、社会の根幹を成すものは法体系だ。
人間社会の多くはこの法体系に沿って生きている。
それは皆にとって認識でき、共有できるものだからだ。
一つの体系として機能するもので、多くの人がそこに依拠する。
社会的慣習も同様であり、自然もまた、科学によって同じように認識でき、依拠できるものだ。

一方で、私の観察とそれに基づく予知は、このような体系の外にある方法だった。
少なくとも、社会的に体系化されたものではなく、多くの人間にとっては参照することすら難しい。
それだけでなく、この観察と予知が語られるとき、人間社会という一つの体系があらゆる層で壊れてしまう恐れもあった。
それは多くの人が憎悪と非難を私へ向けるに充分な破壊力を持ち、同時に恐怖を与えるものでもあったかもしれない。
このようにして、私の力と立場は形成されてきた。

そのような世界の声とあまりにも中途半端に、私は同期しすぎたのだろう。
降雨が悲しみであり、雷鳴や風の唸りが怒りであり、日光が祝福であり、また静けさが受容であるとき、いかにして世界の声に耳を傾けるべきだったのか。
私は幼少期の頃から異質な感覚を持っていた。
観察者として、生じる結果を感じ取ることができたが、私自身は害されたくなかった。
自分以外の誰かが害されるのも嫌だったが、自分がその被害を被ることを酷く恐れた。

私の予知という力は、贈与であった。
だが、それをもって善を為したのか、それとも悪を為したのか。
私自身は前者のつもりだったが、周囲が向ける自分への憎悪や非難を見るにつけ、おそらく後者だったのかもしれない。
明らかに贈与過多であり、混乱を招いた恐れがあるのは否めない。

救えなかった命、また残された命に対して、どのように向き合っていくべきなのか。
また、この予知的感覚は年齢を重ねるにつれて、多少なりとも鈍くなっているように思うが、この特質についてもどのように向き合っていくべきなのか。
三十年以上、これらのことを抱えてきたが、この数年で私は改めて、そしてよりはっきりと、思い悩んできた。
彼らに対して、私はかけられる言葉を持たない。
どのような想いを持って向き合えばよいのかもわからない。

私は、戦争が嫌いだった。
国という一つの社会的集団が一部の代表者の決定によって、他の国の民を虐殺するという行為が納得いかなかった。
その代表者は、その国の民によって形式上、彼らの意思を体現することになっている。
だが、戦争で死ぬ者達はそうした営みとは必ずしも関係があるわけではない。
必ずしもというのは、まったく関係のないことを示すわけではない。
いかなる国、またはその他社会的集団においては、一部の代表者の決定によって政治的営みがなされており、その国民の生活はそうした営みの上に成り立っている。
その政治的営みが他の国のそれと衝突が起こるとき、戦争は起きる。
現代において、ほとんどの国の政治的行為は連関をもって為されており、ある国の政治的行為が他の国にまったく影響を及ぼさないということは、ほとんどない。
つまり、多くの国の政治的行為が戦争という許しがたい行為を誘発しかねないという危険を孕んでいる。

そうした情勢にあって、二十世紀末に私は生まれた。
戦争がいつ勃発するのかを予知することもできた。
しかし、あらゆる予知がなされていくなかで、それが本当に予知なのか、それとも言葉による誘導なのか。
三十六年以上生きてきて、この予知について、私は一定の見解を持っている。
このことは後述するが、結果的に私の予知は予知であり、また誘導でもあった。
私はあまりにも鋭利な感覚を持ち、あらゆる微細な事象を拾いすぎる。
一方で、このことは、多くの人が得ることができるものを取りこぼすという矛盾を生じさせた。

感覚を通して人間が得ることのできるものは少ない。
すべてを自らのうちに孕むことはできない。
私は多くの人が拾うことができるものを捨てた。
そして多くの人が得ることのできないものを求めた。
多くの人が拾えるものはほかの人に拾わせ、彼らが得ることのできないものを拾うことこそが私の使命であると思ったのだ。
それこそが、自分の存在意義であると。

だが、それは多くの人が得ることができるものの価値を軽視することにつながった。
多くの人が拾うことのできるものは、ただ得ることが容易なのではなく、それが必要なことだから皆が拾うのだ。
皆が拾うことのできないものは、ただできないからだけでなく、拾っても扱いに困るものが多い。
それは価値があるからかもしれないし、ないからかもしれない。

それでも、私は皆が拾うことのできないものを拾い続けた。
そこにしか、自分の存在意義を見出せなかったからだ。
人はそれをただの格好つけだとか、人間嫌いだとか、人と違うことをしたがる変わり者呼ばわりする。
皆が拾えぬことを自らが率先して拾うことで、より多くの人が生き残れるよう祈っていただけだったが、彼らの無理解は私の誤算だった。
多くの人が拾えぬものを拾うというのは、それだけで羨ましがられるものだ。
私からすれば、そのような妬みは安直なものとしかいえないが、彼らにとっては違う。

人は一人で生きているわけではない。
それは個人から集団まで、あらゆる社会においてそうだ。
孤独な人から付き合いの多い人まで、その付き合いの程度に関わらず、なんらかの関わりをもって生きている。
関係の全くない人などはいない。
戦争とは多くの関係をもっているから生じるのではなくて、そのことを軽視してしまうことから起こってしまうのかもしれない。

現代の国際社会では、戦争や貿易摩擦、国内社会では貧困や差別など、ニュースを見れば、日々、不安の種が蔓延っている。
そのような不安の種を無くそう、または減らそうと多くの人達が願い、平和で安心して生活できる社会を目指して奮闘している。

そのような中で思うのは、平和というものがはたして本当に実現可能なものなのか、ということだ。
ここでいう平和とは争いの無い社会のことだ。
戦争や貿易摩擦が争いそのものであることはもちろん、差別や貧困は争いの種になる。

平和とは、争いの無い社会のことではなくて、争いが起きる時に対策を講じることができる社会の状態のことではないか。
平和とは、それがなんであれ、平和ではない状態があるから平和を目指したいと思うものだ。
戦争が起きれば戦争の無い状態を願い、貿易摩擦が起きれば摩擦の無い状態を希求する。
貧困や差別そのものが必ずしも争いを示すものではなくても、そこには格差や憎しみが生じ、争いを引き起こしかねない。

これらの争いがまったく無いに越したことはない。
戦争が無いに越したことはない。
貿易摩擦も無いに越したことはない。
貧困や差別だってそうだ。
しかし、戦争を無くせば、人の血が流れることがないわけではない。
テロや殺傷事件などで、人の血が流れることはある。
また、貿易摩擦を無くせば貿易が滞りなく進むわけでもない。
貿易摩擦とは、貿易上の取引によって不均衡な利益が生じることであり、それは貧困や差別と同種の問題を孕む。
貧困とは、生活上必要な最低限の物資を入手することが困難な状態であり、特に衣食住に関わってくる。
差別には主に男女間における性差別や、異なる人種間における人種差別がある。
これらの貧困や差別を無くせば、格差や憎しみがなくなるわけでもない。

貿易摩擦が貧困や差別といった問題と同種の問題を孕むというのは、これらの諸問題が構造的不均衡による格差というところに収束されるからだ。
たとえば、貿易摩擦によって一部の国や産業が恩恵を受け、それ以外の国や産業が取り残されれば、国対国、または人対人という対立が生じる。
それはまた、新たな貧困や差別の温床となりうる。

戦争とは、あらゆる争いにおける最終形態だといえる。
だが、その本質は、思想の違いに基づいた、貨幣と人口の管理方式をめぐる衝突であろう。
異なる思想や理念の衝突のみで戦争に突入するわけではなく、そこから生じるお金の扱い方の違いと衝突が深層構造としてある。
経済発展と戦争はたんなる相関ではなく、人口と資本の循環という構造に組み込まれており、経済が生み出す「お金」と「それを扱う頭数」は常に釣り合いを求められる。
戦争の原因は多元的だが、その深層には貨幣と人口の管理方式の差異が横たわっており、そのアンバランスを是正する手段として戦争や犠牲が利用されるということだ。

こうした構造的不均衡は、常に存在する。
一つの問題を解決したとしても、それは形を変えて現れる。
様々な不均衡や格差、そこから生じる分断や憎しみがある。
だからこそ、争いの火種が生じるその時に、それとどのように向き合い、どう解決しようとするのか。
そのような姿勢がより一層求められるのではないだろうか。

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