絶望を感じる時、それは望みがないことに対してであり、希望を感じるとき、それは望みがあることに対してである。善とはあるものの肯定、悪は否定であり、これらは存在論に対する倫理的階層としてある。また、否定とは何かがあることに対して生じる。
存在が存在するとき、その肯定は存在にとって善だと言ってよい。存在することへの許容だからだ。一方で、存在の否定とは拒絶である。悪が否定であるということは、存在一般に関する倫理観を示す。望みとは、存在への可能性である。
絶望を感じるとき、不在と否定の混同に注意が必要だ。否定は肯定との衝突によって生じるが、不在は衝突を必ずしも含まない。ここで不在を否定と読み違えると、存在への倫理的態度を誤る。
しかし、往々にして絶望の根源は否定による不在だ。絶望とは、不在に対する反動的仮構である。否定が悪であり、不在を引き起こすとき、絶望には倫理的階層が伴う。否定を孕んだ不在に対処しようとすると、この倫理的階層が克服において障害となる。
克服とは否定された何かを肯定することで仮構を再構築することだ。そのとき、これらの肯定と否定は、倫理的階層において相剋する。絶望からの脱却とは、相剋が生じた階層からの超克であり、単一の倫理的階層に依らずに階層間を移動させる、判断の柔軟性を要するものだ。
絶望と倫理
考察メモ
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