人は皆、各々異なる身体を持ち、異なる感情や考えを持っている。これらは人生の意味を考えることにおいて、まさにそれを考えるきっかけであり、また障害物となるものであるように思う。
人は生まれてから現時点まで、意図せずとも様々なことを経験し、学習する。各々が生誕という出来事から始まり、死という終点に流れ着いていくなかで、多様な経験や学習といった営みは、個々の人生において、事故が起こりやすい交差点のようであり、一息つける喫茶店のようでもある。経験や学習は独りでできるものではない。独習という言葉もあるが、それは本や、現代においては動画など、誰かの著作物を用いる限りにおいて、全くの独りではない。経験や学習は、他の誰かもまた、そうした営みを行っているからできることである。これらの営みは、生誕という起点から死という終点を通る上で、任意に共有できる道程を含んでいるように思える。誰かが上手に通ったと思われる道程を踏襲することで、死という終点に向かう道中の恐れを和らげることができると考えるからではないか。既に誰かが通った道程は安心できるし、自分も同じように通ることができるように思える。だが実際はそうではなく、なかなか上手くいかないし、上手くいったように思えても、全く同様にその道程を踏襲することはないのではないだろうか。それは冒頭に述べたように、皆、異なる身体を持ち、異なる感情や考えを持つからであり、むしろそれらのことによって、その人独自の工夫ができるともいえる。好むと好まざるとに関わらず、全く同様にとはいかないのが常ではないか。独自の工夫は既知の道程から道中において、逸脱することであるといっていいように思う。例えば家から職場までの帰路で、少し寄り道していくのと似ている。工夫というと最短で、寄り道というと遠回りで違うじゃないかと思う人もいるかもしれない。独自の工夫が既知の道程からの逸脱であるということは、面白さの追求ともいえる。家から職場まで、毎日同じ道中を往復するよりも、少し寄り道できる場所がある方が退屈しないのと同様である。もちろん、自分は家に面白さがあるという人は別かもしれない。人は皆生まれて死んでいくというのは歴史的事実である。そのような反復の歴史のなかで、自らの生にどのような意味があるのか。これは先ほど用いた喩えである、家から職場までの帰路の往復に退屈することがあるのと同様ではないだろうか。もちろん往復による退屈が人生の意味を問うのかということではなく、これは契機の一つにすぎない。何の契機かといえば、それは死への直面ではないか。延々と続く反復は、そのまま真っすぐに死へと直面するのではないかと感じさせる。なぜ死へ直面すると生の意味を問うのか。死は生の終わりである。生が終わるとき、それは経験と学習、反復と逸脱の終点でもある。究極的に反復とは、生誕から死という人間の歴史的事実であり、逸脱とは異なる身体や感情、考えから生じるといえる。それが終わるとき、人はなぜその意味を問うのか。人はそれまでの人生で、経験と学習、反復と逸脱を営んでいく。一方で死は人生において、たった一度しか経験できないものだ。逸脱は異なる身体や感情、考えから生じるため、死んだらできない。一方で反復は、皆が等しく迎える生誕から死という歴史的事実である。人生の意味を問うという営みは、この反復という行為を、何らかの方法でしようとするものであるように思える。逸脱という行為は、死んだらできない。だからこそ冒頭で述べたように、逸脱を生じさせるものは、人生の意味を問う上でそのきっかけとなり、また障害物となりうるといえるのではないだろうか。
生死における反復と逸脱
存在・意味・時間・死生観
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