私は、自由意志はあると思います。自由とは何にも縛られないことではなく、外部の要因の影響を受けないことでもありません。自由とは、その人がどれだけの選択の余地を有しているか、だと思います。もちろん、人が何かしらの行動を選択する時、人は一度に複数の選択を選ぶことは往々にして困難であり、たとえば選択の余地があったとしても、一つの選んだ行動があれば、その他の選択肢はその時点で選ばれていないことにおいて、そもそも無いこととどのように異なるのか、という指摘はあるでしょう。しかしながら、選択の余地が見えていて、その中から選ぶことと、もともと一つの選択しかないのとでは、その選択の過程は大きく異なります。もちろん、結果論としては同じことではないか、とも言われるかもしれません。しかし、それはあくまでも事後から見た振り返り、後出しにすぎません。つまり、事後にはそのように見えるだけのことであり、最初からそれしかなかったことと、他にも選択肢はあったうえで選んだ行動はその過程において大きく異なると言えます。さらに言えば、複数の選択肢から一つを選ぶことは、他の選択肢を避ける選択をした、ということが言えるのではないでしょうか。最初からそれしかなかった、という場合にはこのようなことは言えないでしょう。
自由とは選択の余地があることであると考える時、外部要因は私達の選択を縛るものではなく、選択肢に影響を与えるものである、ということができます。つまるところ、私達を縛るものは、自然法則や外部要因でもなく、物理的な位置のみです。私達がどこに位置するかによって、相対的に個々の選択者が持つ選択肢は異なるといえます。それらの位置によって異なる選択肢を比較する時、私達は自由に選択できないなどという錯覚ないしは、幻想を抱いてしまうといえます。
また私達は皆、異なる位置にいるということにおいて、全く違うゲームをしているということはありえません。なぜなら、私達は異なる位置にいながらも、物理的に同じ自然法則を適用できるからであります。
選択者ないしは観測者は全く同一の位置から何かを選択することも観測することも不可能です。相対的に異なる位置からそれらの行為をすることしかできません。このことにおいて、これらの行為は確定しているとはいえません。それは選択または観測されていないということにおいて確定であり、これらの行為を通して不確定となるということができます。
複数の選択肢があるときにその中から一つの選択をすることにおいて、選択の主体は端的に言えば、選択者です。主体とは物事の起源ということができます。選択者が人間であるとき、あらゆる事情や感情に基づいて選択するでしょう。そこには遺伝的要因や物理法則、社会環境などの外的環境要因の働きが作用します。選択者が人間であるということは、いかなる外的環境要因があるにしても、それらを五感なしには受け取ることができません。五感は喜びや怒り、悲しみや楽しさなどのあらゆる感情を生じさせますが、これらの感情は全て、それらを生じさせる原因に向かって作用します。これらの感情を生じさせる原因ということは、感情の起源ということができ、つまるところ、感情の主体とは感情を持つものではなく、感情を生じさせる外的環境にあります。外的要因を突き詰めても、明確な主体というものを見出すことは難しいでしょう。人間の有限である身体は、それら全ての外的環境要因と協働ないしは共働することはできません。人間が自ら動かすことができるのは有限である身体のみです。主体とは、このような途方もない状況の中で生み出されたいわば幻想ともいえる概念といえます。その一方で、人間の感情の一つである不安は、それを生み出す原因である外的要因から逃れるように作用します。このように考えるとき、人間が抱える不安という感情は、外的要因からの縛りから逃れる手がかりであるということができるのではないでしょうか。
位置と自由意志
存在・認識・倫理の基礎論
コメント