私の考えでは、理性とは認識の形式そのものに根差しているように思えます。認識の形式とは、抽象を指示する抽象を介して、他者と自己が各々の抱える抽象と具体の差異を見出すことです。ここでの差異とは、ほぼ同一の抽象を象徴という具体によって明らかにすることで生じるものであり、つまりそれは主に各々の抱える具体つまりは身体のことです。このことを言語構造にたとえるならば、多義性を持つ単語つまりは象徴という具体が、文章の静的構造つまりは認識の形式によってその多義性つまりは抽象を限定するということになります。この認識の形式つまりは文章構造が理性であり、感情つまりは多義性を持つ単語は理性によって、限定することができるということです。しかしこの感情は単語に集約されるとして、それ単体では存在と非存在を内包する不安定なものであります。感情の志向性とは、存在または非存在のどちらかに向かうものであり、それは文章構造ないしは理性の形式によって決定され、またこの理性の形式は、単語ないしは感情によっても左右されることになります。しかし、理性の形式が感情によって影響を受けるとして、象徴を介するということは変わりません。ここで感情からの影響があるとすれば、その象徴が何を指示するのか、ということに影響を及ぼすことが考えられます。これが私の感情と理性の関係についての考えです。
理性と感情の関係について
私の思想
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