将棋について

考察メモ

自分の経験を踏まえると、やはりこのように思わざるをえない。あの業界には暴力を好む気質が強く残っている。そもそも、将棋という競技自体が本質的に暴力性を持っている。それは人間の本質にもあるが、その暴力性といかに向き合うかで、人としての礼節が異なるのだろう。

将棋という競技の暴力性と、それぞれの向きあい方という観点から棋風を読み解くのも面白い。たとえば、大棋士といわれる人の中には受けの棋風を持つ人が多い。これはただの受け身ではなく、相手の暴力を受け流しつつ、それを解体していき、かつ相手玉の詰みに収束させていくという見方ができる。

そもそも将棋という競技に、なぜ暴力性があると言えるのか。その最たる理由は、駒に人性があるからの一言に尽きる。その競技の進め方の根幹は、駒と駒のやり取りであり、相手駒のいる場所を奪うというものだ。まさに暴力的ではないか。だからこそ、自分が奪う時は楽しく、奪われた時は腹が立つ。

こうしたやり取りの中で、大棋士による受けは、単なる派手さとは異なる、美しさを伴うことがある。それは自分の暴力を押し通すのでもなく、相手の暴力を認めた上で、自らの攻勢に収束させていく様だ。羽生善治や藤井聡太といった棋士の受けには、このような棋風が見られることがあるように思う。

ただ人気棋士の名を挙げた訳ではなく、その人気には理由があるということだ。

将棋は囲碁やチェスと比較しても、その暴力性を最も強く孕んでいる。これは将棋という競技を否定するものではなく、競技における暴力性の扱いの難易度が最も高いという主張だ。盤上での礼節と盤外での礼節の関係が直接に等しいことを主張するものでもなく、それは思考の在り方の一面を示す。

将棋における駒は、碁石やチェスの駒と比較しても人性が最も強く、その余白がある。碁石には人性がなく、その陣取りにおける破壊は将棋のそれと比べて、一方向に収束していくものだ。チェスの駒には役職や役割といった人性があるが、それは社会的役割の象徴であり、これも一方向に収束していく。

チェスや囲碁とは異なり、将棋の駒は再投入される。この競技の進行は一方向的な収束を目指す一方で、そのように進行するとは限らない。これが将棋の駒における人性の余白であり、最も現実性を帯びた暴力性を孕むことの証左だ。だからこそ、それといかに向き合うかで、各々の美学が見える競技だ。

ところで、将棋界からスポンサーが離れているという。盤上の暴力性が盤外にも出ているからではないか。既存ファンを蔑ろにし、新規ファンの獲得に注力している。古参ファンが楽しむ姿を見せようとせず、新規ファンを呼び込もうとする。ファン層が入れ替わるだけで、本質的には変わらないだろう。

新規ファン向けのイベントの多さがそれを物語っている。初心者・女性向けのイベントを多く打ち出し、ある程度レベルが上がって中上級者になると、そうした者向けのイベントは激減する。その方がイベントを展開する側にとって、楽だからだ。

だが、これは主催者側だけの問題ではない。将棋界隈の古参ファンは、ほぼ伝統的に、マナーがあまりよろしくないことがある。だからこそ、日本将棋連盟としては、ファン層の入れ替えを図っている節があるのだろう。

一方で、これは私見だが、将棋民のマナーの悪さは、ファン層の入れ替えを図ったとしても、おそらく変わらないと思われる。また別の形で表れるだろう。それは将棋という競技の本質に由来するものだからだ。マナーの周知と徹底を図った方がはるかに良い。

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