感覚と認識における象徴の役割

存在・認識・倫理の基礎論

我々の認識は全て五感からくる。例えば辛いものを食して「美味しい」や「辛い」という感覚は、文字などのシンボルなしに成立するか。私は言葉なしに成立しないとは思わない。言葉なしに何かを感じることはできる。一方で、その辛いものを「美味しいもの」とするにはシンボルは必要だ。なぜなら、「辛いもの」を「美味しい」と感じるということは、既にその時点で言葉というシンボルを介しているからだ。誰かと「辛いもの」を食して感じることが「美味しいね」であれば、それは美味しいものとなり、不味ければ、「不味いもの」となる。だから、人の好き嫌いは分かれるといえる。シンボルは感覚を規定するものではなく、何かを共有するためのものだ。そもそも、何かを「規定する」というものはあるのだろうか。何等かの形で相互依存することによって成立する世界において、極論を言えば、「共有可能な何か」がその形として成立する限り、何でも可能だということはできないか。美味しいものを「美味しい」とするには言語は必要だ。シンボルを介することなく、「美味しい」と「不味い」の差異を感じることはできるし、それが快か不快かを感じることもできるだろう。先述した内容で述べたことは、その差異を差異として一致する為に、シンボルは必要だということを述べている。例えば「美味しい」にしても「不味い」にしても、その表現は人によって異なる。人によって同じ「美味しい」でも「不味い」でも、感じ方も全く同じということはあるのだろうか。言葉は差異の識別を可能にするものではなく、その差異を差異として表出し、一致させるためのものであるということだ。言語は感覚を規定せずに、表現するものであり、感覚は言語を介して共有される。感覚は五感によるものである。言語は何かを共有するための一つのシンボルだ。私が述べたことは、その表現や共有がいかにして成立するのか、その個人的な主張である。共感や共有体験にもシンボルは必要だ。それは言語に限らなくてもいい。音楽や芸術、表情やジェスチャー等、これらも一種のシンボルだといえる。差異はその表出と共有の過程において、シンボルにより切り取られる。それは偶然性を含んでおり、そのようになってしまった、ということもできる。これはシンボルによって切り取って表現するということが暴力的であるともいえる。なぜなら、個々の五感で感じることがシンボルを介して一致したとしても、それは完全な一致であることと同義ではないからだ。シンボルを介して個々の感じた何かを共有する過程において、各々の感じる何かのディテールは切り落とされるということになる。だからこそ、我々は何かを共有するということにおいて、難しさを感じ、言葉を尽くしたり、また、様々な手法を採ろうとしたりするということもできるのではないだろうか。シンボルを介して個々の感じた何かを共有する過程において、各々の感じる何かのディテールは切り落とされるということは、本来人間は五感により大量の何かを感じており、シンボル化によってその何かを絞っている、ということになりはしないか。それは意識と無意識の区別に関連するのではないか?つまり意識化とはシンボル化であり、無意識とは本来、シンボル化を介さずに為される何かではないのか、ということだ。

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