哲学とは、いかなる局面で何に基づいて、どのような判断を下せるのか、または下せないのかという人間の思考を体系的にまとめようとする試みである。それは判断以前の条件をも含む営みである。
哲学における重要な側面の一つに、倫理がある。それは人間がさまざまな局面で判断をしようとするとき、人道上問題のない判断ができるための基準を示す。このとき、哲学は人道上問題のない判断とは何かを考えることから始める。
いかなる判断を下そうと、その思考は人間のものである以上、人間にとって問題のない判断とは何かを考えねばならない。しかし、このことは哲学の主要な側面の一つであって、全てでは全く無い。
いかなる局面でどのような判断を、何に基づいて下せるのか。これを徹底的に吟味することが哲学の営みそのものである。人間が思考によって判断を下し、生を繋いでいく以上、それは逃れることができないものだ。
哲学の分野は科学哲学、政治哲学、法哲学、言語哲学など、多岐に渡る。たとえば、自然現象に対して、どのような説明をどのようにして与え、またそれをいかにして応用するのか。科学哲学はその基準となる道筋を与える。
自然現象を観察し、仮説を立て、そして検証する。ここに要するものも判断の連続である。政治哲学にしても同様である。どのように国を治め、いかにして他国と相対するのか。これらを説明し、また判断を下す上で、哲学は拠り所である。
法哲学も、政治が法に基づくことを要する以上、同じことである。言語哲学は、人間の思考が言語を要する上で、それがいかにあり、どのようにして使われ、また使うのかを考える。
思考の要となる言語を吟味することで、判断の妥当性に精緻な説明を与えようとする試みである。また、哲学という営みに対して、批判的に用いることができる手段だともいえる。
一方で、哲学の興りや営みとは、判断の目的を必要とするわけではない。哲学を営むことと依拠することでは、哲学へ関係していく層が異なり、また、そのようにあるべきだ。先述したように、哲学の重要な側面の一つに倫理がある。
ある判断の目的のために哲学を営むことは、その目的によって判断の基準に恣意性が生じてしまう恐れがある。少なくとも、このことについて、厳密に自覚していなければならない。
前述のことは、特に存在論や認識論にとって、大変重要な問題である。それが存在一般や認識一般に関することである以上、ある特定の判断目的に基づいて、存在や認識に関する判断を為されてはならないのである。
ここで述べていることは、存在論や認識論も「判断を下す」という人間的営みから免れることはないということだ。一方で、恣意的な判断とは、恣意性とは何かという懸念が残る。
この恣意性とは、目的の判断ではなく、判断の目的、つまり、何に関して判断をしたいのか、ではなく、どのような判断を下したいか、に関することだといえる。判断の対象を決めるのは良いが、判断の結論を先に置いてはいけないということだ。
このような理解があったからこそ、カントは「純粋理性批判」を書き、「判断力批判」を書いたのではないか、と私は思っている。ここに示したことが、まさにカントの著作の動機ではないだろうか。

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