冬夜の見送り

小説

あれだけ暑かった夏も終わり、すでに季節は冬だ。間にあるはずの秋はあったのかもわからないほど、あっという間に過ぎ去った。引っ越しの荷解きを終えた私は、差し込んでくる西日に当たりながら、窓辺でゆっくりと腰かけていた。世間はクリスマス・シーズンで、街中ではサンタとトナカイで飾られたショー・ウィンドウや、クリスマス・ツリーがあちこちに見られる季節だ。

少し肌寒さを感じてきたので、物入れから毛布を取り出した。身を包むと、そのまま眠りに落ちてしまったようだ。いつの間にか、宙に浮くような、変な感覚がぼんやりとしてきた。すると窓辺に座っている自分を上から見下ろす光景が目に浮かんだ。これは夢の中に違いない。私は思わずビクッとしたが、同時に眼下の私の体も僅かに動いた。試しに椅子から体を立ち上がらせようとしてみると、体は難なく立ち上がった。なるほど、これは面白い。ゲームでキャラクターの体を動かしているみたいな感覚だ。クローゼットの方へ体を動かすと、私の視点も体について動いてきた。いつも着ている外套やジャケットなどが、ちゃんと掛けられているのが見える。満足気にそれらを眺めながら、外はどうなっているのかが気になった。出られるのだろうか?外套を身に纏わせると、外庭に出てみることにした。

不思議な感覚だ。これはいったい、何が起きているのだろう。頬を柔らかに撫でるそよ風にあたりながら、日光と空気を感じる感覚が、体を媒介に伝わってくる。外は暖かな西日が降り注ぐ中、冷たい風が心地よく吹いていた。これらが夢の中で起きていることだとしたら、すべて頭の中の出来事だ。しかし、自分の視点は頭の中にはない。体の上から見下ろしている状態だ。そのことに気づいた途端、急に不安になった。

これは本当に夢なのか。それとも現実なのか。どうやって確かめればよいのだろう?無性に、誰かに会いたくなった。自分以外の誰かと話せれば、これは夢ではないのではないか?しかし、自分にはこんな時に会える人もいない。がむしゃらに門扉を開けて外へ出ると、知っている風景が広がった。道が川沿いを走り、中心街の方へ伸びている。その方面にはまだ行ったことがない。行ってみると、どうなるのだろう?

しばらくの間、歩道をずんずんと歩いてみた。閑静な住宅街が続いたが、人っ子一人見当たらない。ドキドキしながら路地をいくつか曲がると、住宅街を抜けた。その途端に私は思わず、あっと声を上げた。そこは中心街に繋がる大通りで、車が何台も走っていた。

これは現実の出来事なのだろうか。道行く車を見つめながら、私の視点は相変わらず自分を見下ろすように宙を浮いている。そのまま道沿いを歩いてみると、居酒屋が何軒も、ひしめき合って立ち並んでいるのが見えた。一軒一軒、外から品定めしていると、そのうちの一つに目が留まった。その店は外観から一見して、他の店とは異なる感じがした。焦げ茶色のレンガ調の建物で、色とりどりのネオンで飾られた店に挟まれて、ひっそりと、しかしどっしりとした店構えをしている。開店中とある。落ち着いた雰囲気が自分の好みに合っていた。実際に酒は飲めるのだろうか。すでに試したい気分になっていた私は、そこで一杯飲むことにした。

バーに入ると、このご時世に珍しく、煙草の煙が薄っすらと漂っていた。建物の外観が与える雰囲気と同様に、木を基調とした古風な店内だ。左側はすべてカウンター席で、中央にはグランドピアノが置かれている。テーブル席がその周りを囲んでおり、夕刻前だからか、ほとんどが空席だ。カウンター席には誰もおらず、テーブル席に二、三組ばかりいるだけだった。人がいる。そのことにどきどきしながら、私はカウンター席に着いた。人に会うのはいいが、この出来事がいったい何なのかを、どのように確かめたらよいのか?他人に直接、聞いてみるわけにもいかない。もし現実ならば、尚更だ。

「いらっしゃいませ。ご注文は?」

たぶん、この人がバーのマスターなのだろう。カウンターの向こう側には店員が数人いたが、その中で一番年上に見える。ビールを一杯とつまみのポテトフライを注文すると、飲み物が直ぐに運ばれてきた。これを飲んで漏らす心配はないだろうかと心配になりながら、ジョッキを片手にちびちびと飲んでみた。旨い。確かに本物のビールだ。では、これはやはり現実か。とにかく喉が渇いていた私は、あっという間に一杯を飲み干した。喉を潤しながら、その様子を傍から見ているのは奇妙な感覚だった。もう一杯注文しようとマスターを呼ぼうとしたその時、後ろのテーブル席の会話が聞こえてきた。

「だから、やめようって言ったろ?」太い、男の声だ。
「そうは言ってもさ、あんただって欲しかったでしょ?」甲高い女の声が答えた。
「でも、どうすんだよ。あんなに簡単に壊れて。どこが丈夫なんだよ。」男の声がうなだれた。

何が壊れたのかは、会話の続きを聞きそびれた。ちょうどおつまみが運ばれてきて、そちらに気を取られたからだ。しかし、次の言葉が聞こえてきた瞬間、私は思わずむせてしまった。眼下の自分の体から出た大きな音をごまかすため、付け加えるように咳払いした。

「奴らが悪いんだ。最後まで譲らないから。どうしようもなかったでしょう。」女の声が低い調子で呟いた。
「せっかく見つけたのに。」男の声は落ち込んでいるようだった。
「こんなことでそんなに落ち込まないで。まだ日があるでしょう?」女の声が男を励ました。

体がむせて反応してしまったことに、未だ気まずくなりながら、ひたすらビールを飲んだ。ベロベロに酔っぱらえば、この珍妙な出来事も解消されるのではないか。そんなことを期待しながらも、会話に耳を傾けずにはいられなかった。

「日はあるけどよ、あれを欲しがってたのは俺より、あの子なんだよ。どれだけ楽しみにしていたか。」男は諦めきれないようだった。
「腕時計なんて、他にもあるじゃない!クリスマスまでまだ時間があるんだから、他のを探せばいいでしょ?」女は半ばからかうような、半ば呆れたような声で言った。
「だいたい、クリスマス商戦か何だか知らんが、セールで取っ組み合いになるなんて。ありえないだろう。どんな商売してんだ。」男の声に怒りが込められていた。
「あんた、世の中を知らなさすぎよ。」女の声は明らかに面白がっていた。

私は深くため息をつくと、体に持たせていたビールジョッキを静かに降ろした。自分にとって、酒の肴にするにはまずい会話だった。だんだん腹立たしくなりながら、残りのポテトをやけくそ気味に頬張ることにした。今しがた女が言った言葉が、脳裏に焼き付いた。

――あんた、世の中を知らなさすぎよ――

一気にジョッキを飲み干すと、店員に勘定をお願いした。さっさと支払いを済ませると、なぜだか体でイラつきを過剰に表現したくなった。少し大げさに肩を怒らせながら、バーを後にした。

外はすっかり暗くなり、厚い雲空が頭上に広がっていた。肌が凍てつくような風に身体を吹きつけられながら、今にも雪が降りそうな空を見上げた。次はどこへ行ってみようか。一旦家に戻ろうか。いや。せっかくだから、もう少し街並みを見てからにしよう。半ば途方に暮れながら、歩道に突っ立った自分の体を歩かせ始めた。バーに入る前より、明らかに人が増えている。雑踏の流れに身を任せながら、街の様子をじっくり窺っていると、向かい側から来る三人組の親子とすれ違った。両親と手を繋ぎながら、間でゆらゆらと楽しそうに子供が揺れていた。

「パパ、ママ。プレゼントありがとう!」
「何を言ってるんだ。これから買いに行くんだよ。」
「まったく。この子は気が早いんだから。」
「だって、早くしないと!プレゼントなくなっちゃうよ!」

幸せそうな家族を見ていると、バーで会った二人組の男女が少し気の毒に思えてきた。おそらく我が子にプレゼントを買ったものの、セールの取り合いか何かで壊れてしまったのだろう。クリスマスは確かに、家族で祝うものでもある。

突然、自分の意識が揺れ出した。まだバーにいる二人組の様子が垣間見えたのだ。まさか……。自分の体を離れ、バーの中を窺うことができるのか?試しに意識をバーに集中してみた。何も見えない……。今のは何だったのだろう。なぜバーの様子が見えたのか考え込んでいると、体の方に痛みが走った。

「おい!気をつけろ!」年配のおじさんが肩越しに振り返りながら怒鳴り、立ち去っていくところだった。

どうやら人混みを避けきれず、体がぶつかったらしい。私は謝りながら、こらえるように腕をさすった。自分の体がぶつかられ謝る様子を見るのは、余計に腹立たしかった。心の中でめちゃくちゃに罵っていると、再び意識が揺れ出した。またか。今度は逃すまいと、二人に意識を集中してみた。すると、自分の体の意識を保ちながらも、バーの様子を窺うことができた。

二人は、黙々と酒を飲み続けていた。これはいったい、どのような特殊能力を身に着けてしまったのか?誰にもぶつからないように、体を道端の方に寄せながら疑問に思っていると、男の方が唐突に話し始めた。

「さっき、俺たちの前に座っていた奴、明らかに俺たちの話、聞いていたよな?」男が目を細めて、店の出入口を見つめた。
「変な奴。なんか気分が悪くなってきたわ。私たちもここを出て、飲みなおしましょう。」女はそう呟くとゆっくりと立ち上がり、レジに向かった。
「あれ。俺の腕時計、止まってるな。」
「セールの取り合いの中で壊れたのでしょう。この近くに時計屋があるわ。そこで直してもらいましょう。ひょっとしたら、買った腕時計も直せるかもしれない。」女が会計を済ませると、二人は店を出た。
「どっちだ?」
「こっちよ。」女が先導し始めた。

そのとき、二人が向かった方角に気が付いた。このままだと自分の体と鉢合わせになってしまう。道端に突っ立ったままの体の方に意識を戻すと、そこは時計屋の前だった。現代風で曲線を強調した幾何学模様のファサードが、道に面したショーケースを目立たせている。これはただの偶然なのか。もしかして、自分の体の位置と彼らの目的地は同じなのか?いや、むしろ、それが重なったからこそ、二人の様子を覗けたのだろうか?二人の方に意識を戻すと、道沿いに並んでいた居酒屋は、クリスマスのショー・ウィンドウ群に変わっていた。

「ここは中心街辺りか?」男は辺りを見渡した。
「そうよ。」
「この辺りだったと思うのだけど?」女も辺りを見渡し始めた。

私も近くに時計屋がないか周りを探ってみると、自分の体から小さく呻き声が上がった。車道を挟んで反対側に、風変わりなファサードに埋め込まれたショーケースが見えた。

「あれじゃないか?」男が指さしながら呟いた。
「あれだわ。行きましょう。」

二人が近場の横断歩道を経由して時計屋に近づいてきた。私は慌てて体に意識を戻すと、素早く辺りを見渡した。すぐ隣に、本で埋め尽くされた古風な本屋があった。手早く二人をやり過ごすのに、これほど格好の場所はないだろう。ショーケースの前で品定めをしている若いカップルの影に隠れながら、早歩きで体を本屋に滑り込ませた。手近の本を掴んで立ち読みのふりを始めると、再び二人組の”奴ら”に意識を集中させた。

こちらには気づいていないようだった。二人が横断歩道を渡り終えて時計屋に近づくと、ショーケースを眺めていた若いカップルの会話が聞こえてきた。

「これ、かっこよくない?あんたに似合うんじゃない?」女が弾んだ調子の声で、はしゃぎながら、黒い腕時計を指さした。白いニットのセーターに短パン姿で、見ているだけで寒気が走るような恰好だ。
「えっ?これ?黒かー。うーん?」男の方は眉間にしわを寄せて、唸りながら腕組みした。黒のセーターに黒っぽいジーンズを履いていて、ほとんど黒ずくめの出で立ちをしている。それにも関わらず、悩んでいる様子が何だかおかしくて、本屋に身を潜めていた私の顔もニヤニヤし始めた。隣で立ち読みをしていたビジネスマンが、訝しげに私の手にある本の表紙を見つめ始めた。本のタイトルは「丸裸!構造力学入門!」だった。その視線を肌で感じた私は、ゆっくりと本を置き、真顔を装って別の書棚に手を伸ばした。

「いらっしゃい!ゆっくり見てってね!」

気を取り直して二人組の”奴ら”の方を見ると、威勢の良い挨拶が飛んできた。丸眼鏡にベレー帽を被った、中年くらいの男性が、カウンターの向こうから二人の接客をしていた。おそらく彼は時計屋の店主だろう。

「すみません。腕時計の修理をお願いしたいのですが、引き受けていただけますか?」女が店主に呼びかけた。

「ああ、いいよ!腕時計を見せてみて!」

「これなんですが、どうでしょうか?」女が持っていた紙袋から腕時計を取り出した。表のカバーが取れ、時計の針が曲がっていた。

「うーん。ここまで壊れていると、直せるけど。新しいものを買った方が、コストもかからないし、早いんじゃないかな?」

「そうですか。」女はうなだれた。

「これはいかがですか?たぶん、ただの電池切れだと思うのですが。先月から止まったままで。」男が自分の腕時計を外してカウンターに置いてみせた。

「うん!これなら五分もかからないから、大丈夫だよ!ちょっと待っててね!」店主が素早く奥へ引っ込もうとしたので、女はあわてて呼び止めた。

「あの!おいくらですか?」

「ああ、いいよ!これくらい!今月はクリスマスだし、無料サービスだよ!」店主はやけに大声でそう言うと、カウンターの奥で何かを探し始めた。

「先月から止まってたの?」
「すまん。さっき思い出した。」

女は呆れたようにため息をついた。

店主はかなりテンションの高い人のようだ。二人は小声でそんなことを話しながら、店内を見渡した。すると、ショーケースの前で品定めをしていた若い男女が、店の中に入ってきた。なるほど、無料サービスは客引きの効果もあったのかもしれない。女は少し得した気分になったのか、こぼれる笑みを抑えるように下を向いて待っていた。

「わーおしゃれ!」白いニットの女は相変わらずはしゃいでいた。
「うん。いろんな品揃えがあって良いね。」黒ずくめの男が呟いた。

品揃えは確かに豊富だが、店の中は案外狭く、若い男女の会話は二人組の”奴ら”まで直に聞こえているようだ。二人して若いカップルの方をチラチラ見ながら、男の方が小声で呟いた。

「青春だな。真冬だけど。」

白いニットの女は小さく手を振り上げると、黒ずくめの男の肩を軽く叩いた。

「ねえ!これなんか、いいんじゃない?」
「えっ?また黒?うーん。」

「いらっしゃい!ゆっくり見てってね!」
店主が戻ってきた。先ほどより、一段と機嫌が良さそうだった。

「さて、たぶんこれで取り換えられると思うけど!」店主は腕時計の蓋を取ると、持ってきた電池を手早く取り付けた。

「はい!針も動いているし、大丈夫かな?」

「ありがとうございます。本当に無料でいいのですか?」男は腕時計を受け取りながら尋ねた。

「いいよ。サービスだから!」

「ありがとうございました。」女が軽く会釈すると、店主はにっこりと応じた。

「毎度あり!」

「すみません。この人にピッタリ似合う腕時計って、どれだと思いますか?」ニットの女が店主に呼びかけた。その後ろで黒ずくめの男がしかめっ面で、黒い腕時計と睨めっこしていた。店主は一瞬、あからさまに困ったような顔をした。

これ以上は堪えきれないようだった。女は笑いをなんとか抑えて、早足で店を後にした。男が慌てて後に続いた。

外は一層、寒さを増していた。道行く人々は皆、しっかりと外套を身にまとい、颯爽と歩いていた。皆、どこへ向かっているのだろう。しかし、向かう場所もわからず、街をぶらついているのは私の方だ。そう思うとどことなく、寂しさを感じた。バーから追ってきた二人組も、時計屋の若いカップルも、それぞれが誰かを想って動いている。クリスマスはプレゼントを贈ることで、その想いを届けることができる機会だ。深く溜息をつきながら、そろそろ自分の体の方に戻ろうと、私は意識を体の方に集中した。吐息が白く立ち上り、雲空へ昇っていった。

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