虚構と現実はしばしば、無いことと有ることというように二分法で分けられる。この両者が明確に分けられるとき、感覚的な齟齬が起きているのではないか。
虚構は現実と地続きであって、その分水嶺は自己や他者がどのように、どれだけ介入しているかということではないか。虚構とは、ある象徴が指示する対象があって、これらを切り離して考えることができるものであり、現実とはこの2つが密接に接合しているものではないか。
他者の介入の仕方とその量に依って、虚構は現実に近づくということである。これはフィクションが事実に近づくという話ではなく、フィクションがフィクションという事実として引き受けられるということだ。
地続きである両者を事象の有無というように切り離して考えると、何が虚構で何が現実かがわからなくなる。本来はなかったはずのものがあるように思えたり、あったはずのものがないように思えてしまう。
信頼していた者が自分の期待や理解と違ったことや、胡散臭いと疑っていた者が実はそうでもなかったということが起こるのは、こうした感覚の齟齬から来るのではないか。そこに自己としてどのように、どれだけの介入があったのか。
虚構と現実の区別を事象の有無と明確にすると、こうしたことが生じるのではないだろうか。自分が持っていた信頼または疑念とは、自己による介入がどれだけあって、どのようにあって生じたのか。地続き的な観点を念頭に置けば、虚構と現実の反転も感覚の齟齬だといえるのではないだろうか。
