実体、自己と他者、虚構と本質

存在・認識・倫理の基礎論

何かが虚構であるというとき、それは相対する本質というものがあるからだろう。この文章も含めて、すべての論は虚構ではないか。論を成す言葉も、それが持つ意味も、実体がなくても成立する。実体を持つのはそれらと相対する自己である。では、実体があるものにこそ、本質があるのだろうか。もし実体に本質というものがなければ、それは虚構に等しく、もし実体に本質しかないのであれば、それは虚構であることと何が異なるのだろうか。実体のある自己という存在は、虚構と相対する。本質とは実体のある自己が虚構と相対するときに生じる実体の在り方ではないか。

実体のある自己にとって、虚構とは実体のないものを指すならば、すべての他者は虚構といえる。他者の実体は自己のものではないからである。ここでの実体とは、はたして何を指すのだろうか。

それは再現可能性ではないだろうか。本質が実体のある自己と虚構の相対において生じる実体の在り方だとすれば、それは自己が虚構と相対してもなお再現するものであって、しないもの、あるいはするかどうかわからないなものが虚構といえるのではないだろうか。

また、再現可能性とは観察者依存であり、それは他者依存である。再現可能性という実体は、虚構である他者との相互作用によって担保されるということだ。