「開く」ということについて考えていた。門戸を開く、視点を開く、文体を開く等々。これらはより多くを包摂しようとする営みと言えるが、より多くを囲うことではないように思える。門戸を開くにはより閉じた空間がなければならないように、むしろより閉じることで初めて開くことができるのではないか。
白紙に黒墨の筆を走らせる時、黒が目立つのは白があるように、一方の否定が他方の肯定であるように、少数派の抱える問題に焦点を絞ると多数派の抱える問題が浮き彫りになるように、より多くを囲うよりも、何かを浮き彫りにするように焦点を絞ることが、「開く」ということのように思える。
このような視点に立つと、昨今の種々のマイノリティ重視の風潮は過剰というか、変な方へ向いているように思う。なんでも広く開いて、多くを囲い込むように包摂しようとしすぎている。現在のアメリカを中心として、様々な国が内向きに閉じる傾向にあるのは、至極自然な流れと言わざるを得ない。
たとえば、ある思想をもとに集団が形成され、その思想に同調する集団が生じると、権力が生じる。この権力とは数の力であり、民主主義において、最もものを言う力だ。だが、そうした集団が自らの思想に固執すればするほど、自分とは異なる考え方に対して排他的になる。右翼と左翼が相互に批判し合うのも当然だろう。
だが、本来的に批判とは、開かれた視点でものを見ることを重視するものではないか。少なくとも、それを促すことが重要だろう。閉じたところで議論しても、何も発展しないのも当然だ。
一方で、すべての物事に白黒つけるという態度は、逆に自分を苦しめる。なんでも白黒つけられれば、明確な判断ができ、一見効率的なようにも思える。だが実は、自らのあらゆる資源をその効率性に投じなければならず、人間には非常に高難度で、容易に疲弊してしまう。自分が平気でも、周囲の人達は疲れるだろう。
この明確な判断に関して言えば、明確な判断とは、物事の肯定と否定の明示であり、この両者はそれぞれ常に否定と肯定を内包する。一方の肯定は他方の否定であり、その逆も然りだ。明確な判断は、常に意見の衝突を生む。端的に言えば、これがあらゆる争いのもとだ。
明確な判断が争いを生むとしたら、日本語という言語や、ポストモダンの持つ曖昧さは、このような衝突の回避を訴求したものと言うことができるかもしれない。
