苦しみの同質性と来歴の差異

存在・認識・倫理の基礎論

「本当の苦しみ」というものは存在するのだろうか。本当の苦しみというものを訴えるとき、そこには疑似的苦しみというものが想定される。でなければ、苦しみが苦しみであるとき、そこに「本当の」という言葉を加える必要がないからだ。

一方で、疑似的苦しみというものは確かにある。誰かが何かで本当に苦しんでいるのかが疑わしいときはある。だが、その訴えそのものが疑似的苦しみであることは自己欺瞞的でありながら、それはそこに苦しみがないことを意味しない。むしろ、そこには表現しえない苦しさがある。

疑似的とされる苦しみには、その訴えが受容される余地が無い。疑似的とはつまり、苦しみの本質を自己または他者が捉えきれていないことから起因する。苦しみの本質を捉えなければ、受容することは不可能である。

苦しみの本質を捉えれば受容可能であるということではない。苦しみとは、それが自己または他者にとって受容可能であるとき、むしろ昇華される余地のあるものだ。その意味で、「疑似的苦しみ」とされるもののほうが昇華される余地がなく、またそこには別の苦しみが隠されている。

苦しみが「疑似的」とされるとき、それは「本当の苦しみ」が別にあるということではない。それは「本当に苦しんでいること」が何であるのか、という問題である。またこのことは、その「苦しみ」が「誰にとって」「疑似的である」のか?という問題も孕んでいる。

「疑似的苦しみ」とは「本当に苦しんでいること」からの回避的表出である。回避とは、苦しみを表現するときに為される転位や加工のことであり、その表出が受容されない限り、ほぼ必然的に伴うものということだ。

苦しみの本質は身体で感じるものだ。誰かの苦しみと比べて、自分の苦しみを強調することは、その本質を濁らせ、累積させる。これは苦しみの解消を外的受容に求めることから起因する。だがその一方で、外的受容なくして解消できない苦しみというものは確かにあり、それは身体の限界を示唆するものだ。

ところで、社会的論争はしばしば、理念の違いとして語られる。だがその背後には「どのように苦しみを経験してきたか」という来歴がある。たとえば、与えられた特権に伴う孤独も、自ら勝ち取る過程での貧しさも、どちらも切実な苦しみだ。

苦しみとは精神的であれ身体的であれ、身体をもって感じるものだ。その苦しみは自己の内で完結せず、外的受容でしか解消されないことがある。身体という苦しみの在り方、またその解消方法である外的受容は、人間が経験する多くの苦しみにおいて同質である。

だが、苦しみそのものの来歴は往々にして異質である。与えられた特権に伴う孤独・他律的な苦しみ。自ら勝ち取った特権に至る過程の貧困・自律的な苦しみ。苦しみの生じる過程が異なる一方で、どちらも身体的に感じられ、外的受容を要請する点で同質だ。

社会的論争の多くは、この同質性と来歴の差異の構造に沿っているのではないか。同じ構造を持つ苦しみだからこそ、承認をめぐって競合し、互いを疑似化しあうことになるのではないだろうか。

最後に身体は共通の土台だが、倫理的優先は別問題である。私は前者を述べたが、後者(優先順位)は本稿の射程外だ。また身体的であるからといって同価とは限らず、強度や切迫性の違いは別途の規範的検討を要するのは言うまでもない。