思索と人生について

存在・意味・時間・死生観

自分がこれまでに書いてきた文章を振り返っていた。すると粗さはあるが、結構良いことを書いている部分も多々あるように思える。それにも関わらず、自分は「あれでもない、これでもない」と思考を進めてきた。だが振り返ると、すでに欲しかった答えが幾つか転がっていることに気づく。

自分の思索の旅は無限後退に陥っていたのかもしれない。判断は指標に先立つ。だが、これは無限後退を止めるというよりも、駆動と順序の話だ。判断という駆動によって指標が浮かぶ。判断が常に指標に先立つことは、判断と指標の連鎖を断ち切ることを意味しない。

思考を進める限り、この連鎖は止まらない。思考可能な限り、ずっと続く。だが、ある程度多くの思索を経ると、実は人生においては思考過多ではないかという疑念が生じる。一方で、不十分な場面も必ずある。この分水嶺は、人生における解像度や、舞台の枠組み設定の大きさに依存するのではないか。

つまり人生におけるスケールの話だ。生きる上で必要なスケールというのは、そんなに大きくはない。だが他者との関わりの中で生きていると、このスケールの枠組みの大きさに変動が起きる。そのとき、それまでの自らの思索のストックが問われるのかもしれない。

人生のスケールを大きくすればするほど、思索のストックは足りなくなる。例えば、多くの思想家や哲学者という存在は、思索から逃れることはできない。それが社会的肩書きであるほど、社会と自らの思索の接続を求められるからだ。社会は大きいだけでなく、変動するものだ。

だが個人の人生において、スケールの大きさは必須ではないし、そうあってはならない。思考する脳の容量に対して社会は大きい。思索のストックが足りなくなるのは必然だからだ。思索のストックはあるほど良いが、人生のスケール調整も必要だ。足りなくなった時、また補充すれば良いのではないか。