私の思想の概略

私の思想

私の思想において、唯一の普遍とは「存在しようとする」意志です。存在とは在ることであり、非存在は無いことです。ここで善とは存在の肯定であり、悪とは存在の否定です。また存在とは生成され、消滅されることにおいて、生成とは存在を肯定することであり、消滅とは存在を否定することです。存在の肯定・否定がいかになされるかといえば、それは贈与と収奪によってです。贈与と収奪において、存在が有限である限り、何かが得られるとき、何かは失われます。なぜなら、存在するということは、非存在を内包しているからです。存在が無限であれば、すべては一様であり、生成と消滅ないしは贈与と収奪も起こりえません。しかしこのことは、唯一の普遍である「存在しようとする」意志の否定にもつながりかねません。存在が有限で一様でないならば、そこに普遍はないからです。その一方で、すべての存在にとって、「存在しようとする」意志がなければ、存在が存在することはなく、すべてが消滅するでしょう。存在が非存在を内包するとき、「存在しようとする」意志は、「消滅しようとする」意志を内包しています。「存在しようとする」意志が普遍であるということは、「消滅しようとする」意志に対して優位であるということです。でなければ、存在が存在することはありません。このことは存在が存在する限り、「存在しようとする」意志は優位であり、それは善と悪の対立において、善の優位を示しています。善とは存在の肯定であり、それは贈与と収奪によってなされますが、しかしこのことは、それらによって存在が存在する限りにおいてです。贈与または収奪によって存在が消滅しようとすれば、その営みは存在の肯定ではなく、否定となります。私の思想において唯一の普遍が「存在しようとする」意志であることは、存在と非存在、善である存在の肯定と悪である否定、またその方法である贈与と収奪、の対比において、存在が存在するために、存在を肯定しようとする善という営みが優位であるその必要性を強調し、また訴求しているということなのです。

また私の思想において、意志の具体化は象徴を通して説明されます。自己という存在の意志は、他者を介して為されます。自己とは秩序を保つ存在であり、他者とは自己と異なる秩序を擁するもの、または自己の秩序を乱すものです。自己の意志は、その秩序が他者によって乱されるとき、その調整を為すために発現します。自己と他者は互いに異なる秩序を持つことで、各々の秩序は乱されます。自己は存在することで、常に他者との秩序の調整を行っています。常に調整を要するということは、意志の発現は必ずしも必要とされないということです。意志とは秩序の乱れから発現しますが、常に調整を行っているということは、そこにはある種の秩序があるといえるからです。意志の発現とはつまり、意識の発現であり、それは認識する能力を持つということです。認識とは、自己が他者との秩序の調整を為すことにおいて、その営みが多層化かつ複雑化することで生じるといえます。認識はまた、象徴を介して為されます。自己と他者が第三者である象徴を介して、それぞれの意志を具体化するのです。自己という存在が身体という有限性に縛られていることにおいて、その認識は他者を介してでしか顕現できません。意志という認識においては、身体も他者化するということがいえます。また認識はその発現において、自己と他者における秩序の差異の調整を求めています。意志が象徴を介して具体化されるとき、その象徴は自己にとって秩序を求めるものですが、他者も認識する能力を持つ場合、そこには共感または闘争のどちらかが生じるでしょう。共感とは互いを肯定し、闘争は互いを否定します。私の思想において善とは存在の肯定であり、悪とは存在の否定です。しかし一様に共感することは善となるでしょうか。一様に互いを肯定するということは、存在するということが非存在を内包し、また有限であることと相反します。つまり、存在の否定に繋がります。存在の肯定もまた、存在の否定を内包するから、肯定することができるといえます。

私はこのような二項対立において、象徴の力を重視します。それは象徴を介した認識という営みによって生じた二項対立を、象徴に立ち戻って捉えなおし、衝突を回避しようということなのです。

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