象徴と認識

私の思想

たとえば、ここで4人の人間が夕食の材料を買いに、スーパーに立ち寄ったとします。ある一人がラーメンを食べたいと言ったとしましょう。このとき、ラーメンをそれぞれが頭に浮かべます。ある者は醤油ラーメン、ある者は味噌ラーメン、またある者は豚骨ラーメンを思い浮かべます。それぞれが自己(認識するもの)としてラーメンを頭に浮かべるのです。これは記憶(関係の抽象的再現)といえます。ここでの関係とは、少なくとも3つの存在間において、任意の基準位置から象徴が抽象を示す状態です。基準位置は、ここでは頭に思い浮かべた者(認識するもの、自己)です。記憶が関係の抽象的再現において、関係には少なくとも3者が必要ですが、記憶の抽象的再現とは3者を頭のなかで仮想的に揃えることです。ラーメンがラーメンを示すとき、それが同じものを示さなければ、4人が同じものを食すことはできません。記憶における関係の抽象的再現とは、自己(1人)と他者(他の3人)との関係における合意が頭の中ないしは仮想的になされているということです。それはつまり、「ラーメン」という象徴(シンボル)が、それぞれの頭の中で仮想的に、それぞれが今食べたいものとして、思い浮かべられているということです。このとき、何のラーメンを食べようかと一人が問います。それぞれが異なるラーメンを頭に浮かべますが、とりあえず材料を買おうか、まずは麺類だと、また別の一人が言ったとしましょう。このとき、麺類が置いてある場所をそれぞれが頭に浮かべるでしょう。そこへ4人で向かいます。このときに4人が一緒に同じ場所へたどり着けば、そこは麺類が置いてある場所だと、4人は認識しているのです。このことは、4人のなかで、そこが麺類売場だという認識をし、かつ合意に達しているということです。このとき、合意に達しないことも考えられます。そもそもこの4人は「ラーメン」という象徴に対して、異なる具材を載せたラーメンを思い浮かべています。この4人が今度は具材売場へ向かうとき、議論なしには同じ具材売場へはたどり着かないでしょう。いかなる議論(発話や筆記等)も物理的行動を伴います。これはつまり、議論等の物理的行動を伴えば、象徴が異なる場合でも合意に達することは可能であるということです。ところで、記憶とは関係の抽象的再現と述べましたが、このことは象徴の重複という段階において、必ずしも物理的行動を必要としないことを示唆しています。なぜなら、それまでの物理的行動によって、記憶ないしは抽象的関係の再現が洗練されるからです。しかしながら、議論によってすべての事柄が合意に達することは難しいでしょう。その理由の一つとして、象徴は今回の「ラーメン」のように多義性を持つことができ、議論が複雑になればなるほど、多種多様な象徴操作の必要があるからです。多種多様な象徴操作はまた、合意のための議論のほかに、新たな関係を生み出すことができます。たとえば、この四人は別々に異なるラーメンを欲しています。議論の過程でそのことが認識されたとき、ある一人が納豆を見つけたとしましょう。そこで彼は「納豆ラーメン」って上手いのかな、などと考えたとき、これはそれまでの物理的行動を基に、新たなラーメンの関係(麺類と具材間における)を創造したことになります。

注釈:僕の思想における論理は、フレーゲに端を発する論理体系とは異なります。端的に言えば、単語はそれ自体が多義性を持ち、文や文章の持つ静的構造のなかで他の語と並列されることにより意味を形成する、という視点であり、その過程が動的である、ということです。

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