抽象と具体、知識と認識について

私の思想

あらゆる知識と認識は、抽象と具体の階層を往還します。そうでなければ、知識を現実に適用することは難しいでしょう。ここでの具体とは五感で感じ取れるものであり、抽象とは直接的に五感で感じ取れないもの、またシンボルを介して示されるものです。シンボルとは五感で感じ取れる表現媒体であり、記述・共有のためのものです。
抽象と具体は、多義的と一義的、または全体と部分というように言い換えることもできます。この両者は固定された関係にあるものではなくて、視点の切り替えによって入れ替わります。視点が切り替わることで具体が抽象になり、一義性が多義的になり、部分が全体になるのです。具体とは一義的なものであり、また部分的であって、身体によって操作可能なものです。その一連の操作が連なるとき、それらは一つの抽象的で多義的な全体を示します。知識とはそのような身体による操作の方法論的体系であり、認識はその方法論を形成、実行する際の土台です。
推論とは、この知識という身体操作の方法論形成において、認識という土台上でのみ実行可能な方法論形成のための手段といえるでしょう。
これらのことはすべて、具体が五感により感じ取れるものという定義と、身体操作可能なものは一義的、つまりは運動学的に一意のものというところに核があります。具体の定義は、人間が経験的にか直感的にか、日常で感じ取れるか、あるいは感じ取れると思うものか、いずれにせよ感じ取っているもの、つまりは五感によるもの、というところに依っています。身体操作可能なものが一義的なものというのは、人間の身体操作の限界です。一度に操作できるものはその操作において、運動学的に一意であるということです。ここでの一義性は〈時間窓Δt、参照枠R〉に依存します。たとえ多義的に操作できても、それは一義的操作の複合体です。この一義的操作の複合体は具体の複合体であり、抽象であり、合成としての構造です。この抽象が五感によりシンボルを介してしか記述または共有できないというのは、身体操作可能なものが運動学的に一意だからです。このとき、意味論が連鎖として立ち上がるといえるでしょう。

五感=広義の感覚受容
シンボル=慣習的対応づけのある媒体

なお、視点の入れ替わりは〈時間窓Δt・参照枠R〉の変更として規則化します。
Δt=行為を一意に確定する最小時間窓
R=身体+身体化された道具(拡張身体)を含む参照枠
Δtを広げる/Rを拡張すると、一義→多義/部分→全体に寄りやすい。
Δtを狭める/Rを絞ると、多義→一義/全体→部分に寄りやすい。

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