内的一貫性と語義の揺れについて

私の思想

私の随筆群は「存在しようとする意志」を基に、一つの思想体系を成している。その内的一貫性と閉鎖性、語義定義の揺れは、批判の対象となりうるものである。内的一貫性は自己言及を誘発し、循環的になる。一つの体系内での循環は閉鎖性を生じさせる。また、語義定義の揺れは、この体系の有効範囲を不明瞭にしうるものというのが、批判の対象となる理由である。これらの批判は、この思想の根底となるものがどこに依拠するのかを問う。
しかし、これらの特徴は、本思想体系の欠点となるものではなく、相互に補完しあうことで、その欠点を克服しうるものと考えることができる。
本思想体系における語義定義の特徴は、語彙が文脈という因果関係を持つときの揺れである。この揺れは思想体系の根底のなさを示すものではなく、体系の開放性をもたらすものである。また、本思想体系の内的一貫性とは、閉鎖性を示すものではなく、それ自体が思想の根底となっている。
思想の根底となるものが問われるとき、求められる根底とは揺るがない固定的なものであり、それ以上、問うことができないものを想定している。もし、そのようなものがあるとすれば、そのことについては、それ以上、思考することができない。だが、そのようなものが本当に存在するだろうか。あるとすれば、それこそが閉鎖性を伴うものだといえる。この閉鎖性とはつまり、語義定義の閉鎖性である。語義定義が閉鎖性を伴うとき、それはいかなる関係も持つことができない。だが、語義が言語という一つの体系内にある以上、そのようなことは起こりえない。
語義の多義性とは、感情そのものであり、感情とは注意の指向性と価値判断によるものである。たとえば、「悲しい」という言葉が用いられるとき、それは明確に悲愴感を表し、そこから揺れることはないといえるだろうか。答えは否である。「悲しい」という言葉は悲愴感を表す一方で、それはたんなる自らの感情の主張であり、同情の表れともなり、その悲しさを嘲笑するように皮肉として用いることもできる。このことから、感情というものは価値判断であり、またそれは注意の指向性によるものといえる。
語義の揺れが前述のように生じるとき、同情という体系から嘲笑という体系へと移るように、注意は一つの体系から別の体系へと階層が移る。それは体系の開放性である。
語義定義の揺れがこのような体系の開放性をもたらすものだとして、体系の内的一貫性はその体系外といかに接続するのか。それは比較による差異の表出によってである。そもそも一つの系とみなされるものがあるとき、それは内的一貫性を孕んでいる。問題となるのは、その系がいかに外部と接続するのか、その仕方であり、本思想体系の接続方法とは、語義の揺れと体系比較による差異の表出ということである。

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