余白と充足の存在論

余白・抽象

コンピュータが0と1の電位差で動くように、この世界も0と1の電位差のように成立しているのではないか。我々がこの世界で動くことができ、またその動きが相互に関係しつつ、各々が各々の形を保持し、そこに統制があるのは、満たされていない+の瞬間と満たされる-の瞬間を反復しているからではないか?満たされていない+の瞬間は、満たされていないために動くことができる余白があり、満たされる-の瞬間は動ける余白がないため、我々はその瞬間は動けないが、各々の形を保持することができるのではないか。そうした営みの反復があるのではないだろうか?そのように考えると、この世界のなかで何かが加えられる-の瞬間と、また失われる+の瞬間があるという見方ができる。我々の日常の営みは動くことのできる+の瞬間であり、その狭間には我々が日常の営みでは観測できない-の瞬間があるのではないだろうか?(ところで、何かが欠如することでできる余白が生まれるとき、全てがそこをめがけて動き始めるという点で、各々の動きは相互に関係し、その点において統制があるということを書き、コンピュータの電位差のようにとは書いたが、一定のリズムやパターンに縛られるかどうかまでは含意していない。) 何かが加えられ満たされる−の瞬間と失われることで余白が生まれる+の瞬間があり、その余白が全ての動きを可能にする時、全ての動きは余白を目指すという点で各々は関係し、また統制を持つとすれば、その満たされた空間は閉じているということが条件のように思える。そうではなく、−の瞬間と+の瞬間を単に余白のない瞬間と余白のある瞬間とすると、−の瞬間が生じる周辺には+の瞬間が生じると考えられ、そのまた周辺には−の瞬間が生じると考えられる。このように考えると、どこが空間の終端なのかということを考慮する必要はないともいえるのではないだろうか?このように書くと空間の中心というものがあるかのような誤解を招くかもしれないが、これも同様に考慮する必要はない。そのように−の瞬間と+の瞬間の濃淡があると考えることはできる。

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