何かに対して工夫を施して為すことは、反復による学習とは異なる努力を要するのかもしれない。反復による学習が既存の文脈を踏襲するものだとすれば、何らかの工夫を施して為すことは既存の文脈から幾分か逸れる必要がある。今日ではあらゆるものに対して様々な工夫ないしはコツが、特にネット上では紹介されている。これは何かを為すことに対して、その都度、面白さを要求されているということなのだろうか。既存の文脈を踏襲する方法よりも、そこから逸れる方法の方が、確かに面白みがあるように思える。しかし、何かにつけて面白さを要求することは、良いことばかりではないように感じる。面白さは自己の内面で起こるもので、何かを為す際に相対する、その「何か」そのものではないからだ。少なくとも、僕自身はそのような面白さばかりを求めて、これまで沢山痛い経験をしてきたように思う。工夫するということが悪いのではなく、何のためにその工夫をするのか、工夫する過程で最初の目的を失っているからではないか。何のために工夫をするのか、そこそこの出来で即席の結果を求め、そこに喜びを見出すのか、より良い結果を追求し、それに喜びを求めるのか。そこを見失うと本末転倒になる。工夫することはそれなりの苦を伴うことは確かだ。既存の文脈を踏襲する方が比較的楽だ。既に開かれた道を歩き抜く練習をするのと同じだ。一方で工夫することは、それまでとは異なる文脈を歩かなければならないという点で、孤独であり、危険を伴う。ここで反復練習による既存の文脈を踏襲することと、工夫による既存の文脈からの逸脱の違いとは何だろうか。端的に言えば、既存の文脈とは誰かに授けられるものであり、文脈の方から歩み寄ってくるものだ。工夫による逸脱は、自らの手でそこへ歩んでいくものだ。工夫による逸脱はもちろん、逸脱ということは、既に文脈がそこになければならない。結論を言えば、反復による練習も、工夫による逸脱も、どちらも欠けてはいけないということなのだろう。反復練習における既存の文脈とは誰かに授けられるものであり、文脈の方から歩み寄ってくるものとし、工夫による逸脱は、自らの手でそこから逸脱する行為であるとしたが、例えば読書という営みは、自らの手で既存の文脈に相対し、自らの手でそこから逸脱する行為といえる。自ら先人の残した文章ないしは文脈に歩み寄るなり体当たりなりをし、いかにして自らそこから逸脱するのか、例えば読書とは、そのような営みのように思える。僕は比較的幼い頃から、大筋このように考えていたのだが、そうすると、読書という営みがよくわからなくなってくる。それは単に近視眼的なのかもしれないが、例えば、なぜ既に開かれた道を歩く必要があるのか、誰かが開いた道を自ら歩き、わざわざ自らそこへ向かっておいて、なぜそこから逸脱する必要があるのか。逸脱によるより良い方法を求めることは、単に効率を求めるものではないし、そうあってはならないはずだ。効率的に他の生命体を捕食することを効率化すれば、他の生命体は駆逐され、生き残る者は最後に死にゆくことになる。それは単なる順番の問題ではない。誰が先に犠牲になり、誰が最後まで苦渋に満ちながら死にゆくのか。既存の文脈からの逸脱は、そうした結論からの脱却を試みる営みともいえるのではないだろうか。
学習と工夫における反復と逸脱
存在・意味・時間・死生観
コメント