「死ぬ気でやっても死なない」という言葉は、必ずしも真実ではないと思う。もちろん、「死ぬ」という表現は多くの場合、誇張である。しかし、それほど真剣に物事に取り組んでいる人々がいるのも事実であり、そうした人々は多くの苦しみを伴うことが多い。
「適当である」とは、自分にとって丁度良いバランスを見極めることである。適当さは人によって異なり、それぞれの「丁度良さ」がある。自分にとって受け入れ可能な良さが「適当」であり、時には「テキトー」となることもある。一方、「死ぬ気でやる」という表現は妥協を許さない。譲れないこだわりを持ち、それを全うしようとする姿勢を示す。これは完璧主義とは異なり、自分の存在がその取り組みに深く関わっている場合に生じるものだ。「適当さ」は自分を守るための妥協ともいえるが、「死ぬ気で向き合う」ときには妥協の余地がない。心血を注ぐ対象に対して妥協を許せないのは、自分以外の他者や未来の自分が関わってくるからだ。この対象は趣味や職業に限らず、人間関係や自分自身の身体、精神にも及ぶ。価値観や心情、考え方や振る舞いにも関わることがある。例えば、自分や他人の行動が許せない、自分の環境が許せないと感じることも、死ぬ気で向き合っているからだ。これは命を賭けることではなく、自分の存在に関わる事柄であるからだ。自分の存在に関わるとは、現在の自分の在り方に関わることである。命を賭けずとも、そのような問題は必然的に関わってくる。そしてその必然性は、時に衝動的で刹那的である。こうした状況は日常的に起こりうるため、冒頭で述べたように「死ぬ気で物事に向き合う人」が多く、そのために苦しむことも多いのではないだろうか。
適当さと心意気
知性・教育・批評・情報社会批評
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