義理人情という言葉がある。僕はこの言葉があまり好きではない。義理と人情は別々のものであって一体ではないが、そのような印象を与えてしまうように感じるからだ。人である限り人情はあるが、人情だけで人は生きていけず、皆が人情だけで生きては社会の秩序はないと言える。義理とは、それのみではグチャグチャになりがちな人情にある一定の形を与えることで、社会の秩序を守ろうとするものではないか。かつての日本社会はそのように人情に対して秩序を与えてきたといえるのではないだろうか。社会を秩序づけるものは法だと思われがちだが、法はあくまでも人の行動を制限することに重きが置かれる。人情に対して秩序を与えるものは法ではなく、儀礼や作法といった社会的慣習だろう。そのなかでも日本においては、特に義理というものがその大きな役割を担っていたのではないだろうか。日本においては義理と人情であり、西洋において義理の役割を担うものは宗教だったのではないか。日本における宗教が主に自然を扱うものであるのに対して、西洋の宗教は人の宗教と言われる。西洋において個々の人情を形作るものは神話であり、宗教だったと言えるのではないだろうか。西洋における神話が往々にしてドロドロとした話を含むことからも、西洋の神話や宗教は主として人情を扱うものであり、それを形作ることで秩序づけるものと言える。ところが現在の日本や西洋諸国といったいわゆる先進国では、このように人情に形を与えることで秩序づけるものが失われつつある。形を与えることで秩序づけるとはどういうことか。それはつまり、ある形を介することで個々の抱える人情を交えることができるようにすることである。人情とは人の持つ情であり、感情でもあるだろう。感情は感覚に重きが置かれるが、人情は感覚器官に重きを置かなくてもいい。人の持つ情は本来的に交えることが必要であり、そのこと自体が人間社会に秩序をもたらす。しかし先進諸国を中心とした現代社会では、教育やメディアの発達により、個々に考える頭を持ち、個々に好むものを選択する。各々に共通する情を交えることのできるものというのは、益々得づらくなっている。ネットのバズりや炎上といったものは、これまで情に対して形を与えてきたものが失われた代わりに生じる現象と言えるだろう。また情に形を与えることで秩序を作ってきた古くからの技術の一つに音楽がある。これは西洋宗教に音楽が用いられたことからもいえることである。音楽が社会全体の秩序を支配する訳ではないが、これは人情を交える上では最も容易かつ強力な方法である。米国の選挙では某世界的カントリー歌手がその人気により、影響力を持つと言われている。以上に述べたように、現代に求められているものは人情を交えることを可能にする媒介、または情を交えること自体ではないか。言語はもちろんその道具の一つとしてあるだろうが、情を交える上では必ずしも容易であるとは言い難く、その技術が問われがちなところがある。人情は交えなければ潰えていくものであり、人情を失えば人間らしさはないのではないか。それは交えることで人間社会に秩序を与える。秩序のある状態とは、皆が一定のルールを守ることではなく、問題があっても解決する依代がある状態のことだ。行動に関しての問題は法という依代があるが、人情にその依代はあるだろうか。現代社会において人情をどのように扱うか、そのことが問いの一つとしてあるように思う。
義理と人情、秩序と慣習について
知性・教育・批評・情報社会批評
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