僕は「端的に」という言葉をよく使う。端的な言及とは何かを発信することにおいて、その基礎や基盤となるものではなく、むしろある特定の状況においての特殊な技術だ。特定の状況とは端的に言って、その言及する対象を強調することであり、表現としては強いものだ。端的さとは余剰と思われるものを削ぎ落とし、ある部分を切り取ることによってその対象を強調する。一方でここでの発信とは言葉のやり取りであり、それは内容の解像度によってその緻密さが異なる。端的さは解像度を落とすものであり、もちろん要所を捉えれば全体を見渡すことのできる技術だ。しかし、このことはそれが言葉の発信において、基礎や基盤となるものかについては、甚だ疑わしい。僕は最初に「端的に」という言葉をよく使うと書いたが、自分が今までこのように上手く意識的に使えてたかを問うと、これも甚だ疑わしいことは認めざるをえない。僕にとって何かを伝えることの基盤には常に「端的さ」があった。それは発信する内容の解像度を落とすということであり、その方が伝わりやすいだろうなどと「端的に」思っていた節があったからだ。これは僕のこれまでのコミュニケーションの特徴であり、悪癖であったように思う。端的なコミュニケーションにおいては会話にしても文章にしても解像度が低いだけでなく、その表現は強くなりがちになる。それは扇情的になるということであり、相手に対して多かれ少なかれ、何らかの影響を及ぼし易い。扇情的な表現はまた、それを受け取る相手のみならず、発信者自身も振り回す。端的なコミュニケーションとは簡素なコミュニケーションとも言える。特に仕事においては求められることのあるものだろう。それは端的なコミュニケーションがその目的に対して簡素な方が有効だからだ。仕事における端的なやり取りはその目的に向けて強力な方向性をもたらす。強力な方向性をもたらすことと、扇情的であることは同種のものである。端的なコミュニケーションはその使う場所によって異なる効果を発揮し、僕は全くその使い方を間違えていた。もちろん僕が仕事なら上手くいくのかを問うと、今のところそれが求められていることはないとしか言えないのだが。端的さとは余剰と思われるものを削ぎ落とすことであり、それが内容の解像度を落とすと書いたが、これはそもそもその内容全体をどこまで切り取って解像度なるものを落としているのかという問題がある。だからこそ仕事においては端的なコミュニケーションが効力を発揮するのかもしれない。なぜなら、その職種のある作業において、という線引きが比較的容易にできるからだ。だからこそ、端的なコミュニケーションはビジネスにおいては求められることがあるといえるのだろう。過剰な端的さは内容の解像度を落とすのみならず、そもそもどういう線引きの下で解像度を落としているのか、内容全体からある部分を削ぎ落として解像度を落とす前に、そもそもその内容全体をどのように切り取って線引きしているのか、つまりは視野の狭さを生じさせることもあるだろう。ある物事の内容の解像度とは、それらの因果関係をより明らかにすることではなく、単にその絡み合いをより多く詳細に見ることであり、それらをより明確に見ることと必ずしも同義ではないだろうと思う。例えば写真における解像度がピクセル数を増やすことだとするならば、それは対象の色合いの差異をより詳細に明示することと同義だろう。写真においてはその対象は撮影者とカメラのレンズによって枠組みが既に決まっている、つまりは内容の線引きがなされているということだ。だから、解像度を上げると対象がより明確に見えると思うことができる。この線引きによる枠組みの設定が上手くなされなければ、いくら解像度を上げても何を対象として写真が撮影されているのかを判ずることは難しい。無垢の木の机を超至近距離で接写しても、それが机なのか板なのかはわからないように。写真のピクセルのように全ての要素が同じ大きさの正方形であるようにとはいかないが、物事の解像度はこれらにおける色合いのように、様々な要素が各々の色を有して隣り合っている様と考えることはできるだろう。そこに人は因果関係を見出し、またそのように見出す要素を多く見ることができる。だから物事の解像度を上げると、それらの内容がより明確に見えると思うことができる。ただし、それは写真において撮影者が線引きをすることで枠組みを設定するように、物事の内容全体の枠組みが既になされているという前提が条件としてあるだろう。
解像度とその枠組み
知性・教育・批評・情報社会批評
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