改めて言語は不思議だなと思う。単語の意味がわかり、一つ一つの文章の意味がわかっても、結局何が言いたいのかわからない事が多々ある。ここの投稿を読んでも、この人は何が言いたいのだろうと思うことが多い。もちろん各々の単語にはそれぞれ意味があり、それらを並べることで文を構成し、文を並べると文章としてさらに意味を構成するというように言語の使用が成立しているならば、語の数が多いだけそのような並べ方は無数にあるから、訳わからないものも多いのは当然だろう。過去の投稿で書いたことは、共通の任意の点を起点として、また別の共通の任意の点を終点としたとき、その両者の点を行き来することが反復であり、その行き来の過程の重複と逸脱により生じるものが差異であるということだ。その差異が個々の形を作り、それが多様であるというのが僕の理解だ。文の起点と終点は何であれ、語を形成する文字だろう。それがなぜ起点や終点であるかは、それらの隣には文字が無いからだ。日本語では上から下、英語では左から右というようなルールがあることにより、どこに文字があり、どちらに続いているかでその方向がわかる。もちろんここで様々な疑問が生じる。ルールはどこから来たのか、なぜ方向がわかるのか、なぜ意味というものがあるのか、そもそも意味はあるのか等々。言語の使用は語を並べることで文を作り、文を並べることで文章を作るという、並べるという行為で意味を作っていると先述した。では言語の最小単位といえる語の意味はどうあるのか、語は文字で表せるが音でも表すことができる。音を並べるとき、その並べ方も様々だ。雨音の中で唸ることもできるし、風音の中で叫ぶこともできるだろう。そのように周囲の環境が生み出す音と自らが発する音を並べることはできる。ただ、これだけでは並べるとなぜ意味ができるのかの答えにはならない。これは周囲の環境が生み出す音と自らが発する音を並べると、そうした連関性または関係をつくることができるということにはなるものの、なぜそれで決定するのかということには応えていない。周囲の環境が生み出す音と自らが発する音を並べると、そうした連関性または関係をつくることができるとは、例えば雨音の中で「アメーッ」と唸れば「雨」という語ができ、風音の中で「カゼーッ」と叫べば「風」という語が生まれるというようなものだが、これはあり得ることだとは思う。なぜそのような決定をする必要があり、そしてなぜそのような決定が可能だったのか。それは端的に言えば、おそらく始めは「他になかったから」に他ならないのではないだろうか。ある集団内でそのように決定され、その集団がたまたま勢力を持ってしまったからではないだろうか。「ある集団内でそのように決定され、その集団が勢力を持った」というと恐ろしげに聞こえるが、このような現象は学校や職場でも観られる営みではないか。また某世界的SNSのように、親しい仲間内で、その場のノリで決まった内輪ネタのようなものが、たまたま影響力を持つようなことはあるだろうと思う。言語の起源は内輪ネタではないか、ということを前述したが、それは言語がいい加減なものであるということと同義ではない。言語の起源は内輪ネタというよりも、親しみや共感によって結び付けられ、生み出されたのではないか、ということを述べている。言語が親しみや共感によって形作られたとして、それは今日使われている言語が、「馴れ合い」によって作られたということを指すものではない。親しみや共感によって作られたものは時に、苛烈な競争を生むことになり、それはその「馴れ合い」を営む集団が多様にあることからだ。
馴れ合いと言語
余白・抽象
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