治安の良い状態とは、そこに一定のルールがあり、皆がそれらを守るだけで成立するものだろうか。ルールがあるということは誰かがそれらを決めたということであり、民主主義である日本国の政治システム上では、ルールを決定づける主権は国民が有しているということになっている。ルールを決定できる主権は国民が有するということは、ルール作りに国民も参加可能ということであり、そのことでルールを守ることの妥当性を確保しているのが民主主義だといえる。国による意思決定の理念という点で、民主主義は最良のシステムだろう。だがこれを実行しようとすると、この理念は上手く機能するものなのかどうか。前述のようにルールの妥当性を確保するためには、国民はルール作りに参加しなければならないが、本当に参加できるものなのかという点が一つ。日本国において国民がルール作りに参加するということは、選挙に行くこととほぼ同義であるといえる。だがそこで選ぶのは政策ではなく、国民を代表する人達であり、彼らに政策の決定を委任するという形で国民はルール作りに参加可能である、ということになっている。このように国民から代表者を選び、比較的少数の者達で意思決定を行うというのが、実際の意思決定の過程である。これは国とか民主主義とかに限った話ではなく、ある一定規模の会社組織や集団は皆似たような形になる。意思決定する事項に対して、そこに関わる者の数が多い場合には避けがたいものだ。代表者はどのように選ばれるのか。国でも会社でも、学歴や実力のある者に加えて、あらゆる人間関係が関わってくる。この人間関係とは社会的文脈といってもいい。あらゆる立場の人と人の関係が代表者になる上で、非常に重要な役割を担っている。日本国において、このような社会的文脈は代表者の選定に限った話ではなく、治安の維持にも関係している。それはあらゆる立場の人と人との関係が、日本語という言語を介することによって繋がるという面で、である。社会的文脈が治安の維持に貢献するとき、日本語は重要な役割を担う。それは日本国におけるルールが日本語によって記述されるからに留まらない。このことはルールの解釈の違いや誤解を防ぐ上で重要なことであるが、それだけではなく、日本語によって為される会話や振る舞いといった、社会的文化が治安の維持に貢献しているということである。治安の良い状態というのは何も問題がない状態ではなく、問題があったとしても、言語や振る舞い、ルールといった相互理解と共通認識という、解決の依り代にできる手段があるかどうかである。だがこのことは、社会的文脈の外に置かれる立場の者にとっては、排斥されてしまう怖れがあることを意味する。社会的文脈の外に置かれる立場の者とは、例えば異なる言語と慣習を持つ移民、国や会社などの社会的集団による意思決定から疎遠な貧困層である。両者ともに意思決定から疎遠であるが、それはいったい、どういうことか。意思決定に最も近いということは、その決定される事項の決定権を持つということであり、それに近いということは、決定された事項に対して何らかの関わりを持つということである。この関わりが少なければ少ないほど、貧困になっていく。この前述の点においても、民主主義はその理念としては最良のものに思える。国の意思決定の主権は国民にあるからである。その一方で、実際に意思決定を行う過程においては、決定される事項とそれに各々関係する者の間で、それぞれに異なる距離ができてしまうことがある。これが格差だといえる。民主主義での平等とは、意思決定の平等といえる。その過程で代表者を立てることにより、実際には決定される事項とその関わる者達の間で各々距離ができる。その一方で、民主主義によって庇護された資本主義の下で、経済的活動における意思決定の平等が担保されれば、釣り合いが取れうるのではないか。このように考えると、民主主義と資本主義の両輪は、成熟をすぎて腐敗したシステムではなく、まだ発展途上の段階にあるといえるのではないだろうか?
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