私はこれまでの人生で、精神疾患を抱えた何人かの人達に出会ってきた。自らも多少なりともそういった経験をしてきて思うのは、現在の精神疾患を取り巻く状況はあまり宜しくない。現代の精神医学は脳内のホルモンがいかに精神に作用し、また異常をきたすかに傾きすぎている。そうした研究は向精神薬の開発と、それらによる対症療法には役立つけれども、それだけでは根本的な解決には至らないと思える。ここに書くことは、あくまでも当事者としての意見と主張である。例えばうつ病の症状では、その具体的な現れ方は千差万別であるが、多くの人間的活動を心理的に妨げられるということが特徴として挙げられる。これに対して病理的には多くの説明がなされており、脳内のホルモン作用やウイルスによるもの等、多岐にわたる。症状としては具体的には異なるにせよ、類似した症状として集約され、米国精神医学会によるDSMや、WHOによるICDといった診断基準にまとめられている。幾つかの類似した症状にまとめられる一方で、その病理的な原因としては多くの異なる説明がなされている。統合失調症にしても同様である。その具体的な症状の現れ方は、うつ病以上に千差万別でありながら、同じく類似した症状として先述のような診断基準にまとめられる。その病理的な原因に関して、うつ病と同様に、多くの異なる説明がなされている。私はここで、もっと個々の症状に重きを置き、それぞれに異なる治療をすべきということを言いたいわけではない。もちろんそれは必要なことではあり、精神科に従事している精神科医の方々は、限られた処方薬と環境のなかで、日々奮闘されている。そうした精神科医の方々に、不満を述べたいわけでもない。先述したように、私がここに書くものは、あくまでも当事者としての意見と主張である。これまでの自分のブログに書いたことで、心とは基本的に、「ここに在る」ということが基になっているということを書いた。そう考えると様々な精神疾患の説明がつくのではないだろうかと思える。端的に言えば、精神疾患とは、味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚といった五感と、記憶との関係に異常をきたすことではないかと私は考える。そのように考えると、統合失調症がなぜ、幻覚や幻聴、妄想といった症状を持つのかの説明ができるのではないか。うつ病に関しても、なぜ抑うつ症状があり、躁状態を伴うことがあるのかということの説明ができる。パニック障害についても同様に説明ができるのではないかと思える。まず一つ目の主張として、心とは何か。それは「ここに在る。」ということが基本としてあり、そのこと自体は自らがそれ自身のみで知ることはできないということである。自らが「ここに在る。」ということを知るには、他者の存在が必要になる。このことは私のこれからの主張において、とても大事なことである。しかしながら、説明にはかなり骨が折れ、とても長くなってしまうことはご承知頂きたい。できるだけわかりやすく説明しようとすると例えば、「私は東京にいる。」とする。「私は東京にいる。」ということを「私自身のみ」で知ることはできるだろうか。「私自身のみで知る。」ということは地図もなく、周りに尋ねる人もいない、ということだけには留まらない。東京駅もなければ、東京タワーもスカイツリーも、そのほかの建物も何もない。建物がなければ、あるのは道路のみであるが、「私自身のみで知る。」ということは、道路もあってはならない。道路がなければ、住所もない。住所がなければ、東京という地名も成立しない。「私自身のみ」で、「私は東京にいる。」ということを知ることはできない。ここでの私の主張は「私という存在は、○○にいる。」ということが、何かとの対比であるということである。道路なり、建物なり、比較する対象があって初めて、「私は○○にいる。」ということがいえるということだ。「私は○○にいる。」ということが何かとの対比であるとするならば、「私」という存在は常に何かと比べていなくてはならないのだろうか。また比べる対象が変わりやすければ、「私」という存在の居場所は定まらないのではないかと疑念を抱くかもしれない。そうした疑問は妥当であり、そのような生活は大変に疲れる。インターネットやスマートフォンがもたらした、現代における情報社会はそのような疲弊のし易さを如実に示しているといえる。しかしながら、私の主張は現代の情報社会がそのような疲弊のし易さを新たに持ち込んだということではなく、それが情報機器の発達によって、顕著に表れたということである。どのようにして顕著に表れたのか。現代における情報機器の発達によって、「私」という存在は様々な情報を得ることが可能になった。例えば最新のファッションブランドから今日の夕飯に至るまで、「私以外」の誰かが何をどのように着て、何を食しているのかを、日常的に知ることができるようになった。このように多くの情報を得るということは、それだけ比較する対象が増えるということだけでなく、多くの人気とされるファッションやグルメ等々、「私以外」の誰が何を求めているかが顕著となった、またはそのように感じられることが多くなったということだ。インターネットやスマートフォンの出現以前にも、このようなファッション雑誌やグルメ本などは出版されていた。遡れば江戸時代にも様々な番付といった、現代でいうところの人気ランキングが載せられたメディアがあった。印刷技術や物流の発達に伴い、こうした出版物の物量や発行の速度は増大していき、比較する対象は増えるのみならず、次々と変わり易くなっていったといえる。しかしながら、こうした出版物は需要があるから供給されている訳である。需要がなければ、供給されることはない。聞くところによれば、現況においては、このような出版物の数々は苦境に立たされているらしい。現在は求められることが減ったのかもわからぬが、少なくともかつては求められていたのである。それはなぜなのだろうか。それは、人は多くの人が求めるものを求めているから、という訳ではない。少なくとも、それは根本的な理由ではないと私は考える。端的に言えば、人は誰かと共感することを求めているからである。誰かと共感するということは、一種の合意であり、共感するということにおいては、同じような感情ないしは考えを抱く、ということに合意しているということである。その合意に至る者が自分以外に多ければ多いほど、それを初めて見出したときに人は興奮を覚える。そのことが番付や人気ランキングといった、多数者に何が人気であるかを示すものや、そうした出版物の需要として表れたということだ。そもそも人はなぜ何かに合意するということを求めるのか、またなぜそれを必要としているのだろうか。人が何かに合意するということは、「私は○○にいる。」ということが何かとの対比であるということにおいて、非常に重要な役割を担っていると私は考える。「私は○○にいる。」ということが何かとの対比であるということは、「私」という存在は常に何かと比べていなくてはならない。その一方で比べる対象が変わりやすければ、「私」という存在の居場所は定まらず、そのような生活は大変に疲れるものである。人が何かに合意するということは、そのような自らの「居場所の変わり易さ」を防ぐという役割を担っている。このように書くと、これは恋愛のような話ではないのかという風にも読み取れるが、このことはそのような人間関係以上の話を含んでいる。ここでの「居場所の変わり易さ」とは、心理的な居場所のみの話には留まらない。先述した「私は東京にいる。」という話もそうである。「私」は今、東京にいて、明日は東京という場所が千葉に変わり、明後日は埼玉というようなことは実際には起こらないが、そのようなことがあっては困る。そのようなことが実際には起こらないのは、その場所が東京であるという、容易に動かぬ社会的合意があるからに他ならない。住所や地名といった場所はそうであるにしても、心理的な居場所において、合意とはどのような役割を担い、またどのような情報社会による影響を受けたのか。心理的な居場所における合意において、日常的に逐一何かについての合意を求める、というようなことはあまり起こらない。それはむしろ、先述したように共感という形で表される。人が「ここに在る」ということを心の基本とすることにおいて、またそうだとするならば、何かに対して共感するということは、自らと相手を肯定するということであり、自らの立ち位置をその「何か」を介して明確にするということである。例えばグルメ本を読み、とあるラーメン店が人気だとしよう。そのラーメン店の店主は菜食主義者であり、肉は出さない。そのラーメン店に行きたいと思い、日常的に通えば、あなたは菜食主義者としての立ち位置を確保することになるかもしれない。少なくとも第三者から見れば、そのように受け取ることができる。このことは、自らの立ち位置を示すということにおいて、第三者が必要になるということの例でもある。それは少なくとも、菜食主義者の店主によるラーメン店あってのことである。自らが「ここに在る。」ということを知るには、あくまでも他者が必要になるのだ。一種の合意である、共感するということは、このように本来は自らが「ここに在る。」ということを固定化することで、安定させるという役割を担っている。そうだとするならば、このことはどのような情報社会による影響を受けたのだろうか。インターネットやスマートフォンといった情報技術が発達した情報社会においては、様々なものが人気のあるものとされている。またそのような人気の形成とも、共感することにおける社会的合意の形成ともいえる、何が多数者に人気のあるものかを知るということが容易となった。とある料理店のいいね!の数や、ミュージックビデオの再生回数といったものがそれであり、特にどのくらい人気があるのかということが数値化され、より具体的にその人気の程度が可視化されるようになった。それだけでなく、現代の情報社会における特徴として、そうした人気のあるものは次々と出現し、更新されていく。このように多数者に人気のあるものとされるものは、そこに共感を抱く者にとって、自らが多数者の一部であることを感じさせるものである。自らが多数者の一部であるということは、それだけ共感する者が多いということだ。共感を抱くということや、そこに喜びを求め、またそのような共感を必要とするということは、先述したように、自らの立ち位置を確保し、自らを肯定することができるものである。共感する者が多ければ多いほど、その立ち位置は頑強になるといえる。しかしながら、これは人が元来、多数者の一部ではなく、皆それぞれ異なる一個人だからこそ必要とすることではないか。皆それぞれ異なる一個人であるために、人は共感することを求め、またそこに喜びを見出すことができるのではないのか。現代の情報社会は、このような共感のあり方を変質させてしまったといえる。多数者に人気のあるものは、自らの立ち位置を容易に頑強とすることができるだけでなく、多数者に選ばれたのだから、端的に言って良いものなのだというように認められやすい。多数派が是とされやすいのは情報社会以前の話ではあるかもしれないが、情報社会においては、そのことが持続的に、また定量的に可視化されやすい。このことは、多数による肯定という行為のみではなく、多数による否定についても同様のことがいえる。いわゆる炎上やネットいじめ等がそれである。特にインターネット上では、こうした多数による集団意識の形成が容易である。多数による集団意識の形成が是とされることは、多数派を自負する者にとって、共感すること自体がその集団内においては是とされ、またそれは多数派に属することの前提条件である。例えば再び菜食主義者に登場して頂き、また、その集会があるとしよう。今、野菜が大好きな一人の人間が友達に誘われて、その集会に入会するとする。その集会内において肉食は禁止されているが、その野菜大好きな人が「私はハンバーグも食べたい。」と言えば、退会せざるをえなくなるだろう。実際の社会全体において、このような菜食主義が多数派かどうかはともかくとして、多数による集団意識を是とし、また多数からなる集団に属するということは、共感ないしは合意すること自体が前提条件としてあり、共感または合意しないことは、直ちに否定するということになる。このように本来はそれぞれ異なる個々人が、共感することで喜びを見出すことと、自らの立ち位置を確保することという二つの意味合いがあったにも関わらず、情報社会がもたらした共感の容易さとそれを利用した集団意識の形成の容易さは、共感することが目的ではなく、それによって集団意識を形成する手段というように変質してしまったといえるのではないだろうか。では、このことがうつ病や統合失調症、はたまたパニック障害といった精神疾患とどのように関係があるのだろうか。先述したように、「ここに在る。」ということが心の基本であり、そのこと自体は自らがそれ自身では知ることができない。そうであるとすれば、合意ないしは共感するということは、「ここに在る。」ということを固定し、安定させるものであるということができる。現代の情報社会においては、この固定と安定化がますます難しくなっているという側面がある。人が何かについて合意ないしは共感することにおいて、五感の働きは必須である。特に視覚や聴覚といった五感は、合意または共感を得る過程において、身体の外部からの情報を得るのに重要な働きを担っている。人の持つ記憶は、こうした五感から得る情報を元に形成され、現代社会では、五感から得る情報がそれ以前に比べてますます増大している。五感から得る情報は人間の身体において、電位差による刺激に変換され、電気信号となって脳内を駆け巡る。このような電位差による刺激は、ある一定の強度に達するとそれ以上のものを加えることはできないという性質を持っており、過度な刺激を受け入れることができないのが、人間の身体の基本的な仕組みである。精神疾患とは、過度の刺激に晒されることによって、五感と記憶の形成に何らかの形で異常をきたしてしまったということではないかというのが、私の主張である。例えばうつ病においては、過度な刺激によって五感から得る情報をできるだけ遮断するというような働きが起きており、そのことが人間的活動の抑制として表れているのではないか。またうつ病になり、症状が悪化する過程で統合失調症のような症状が現れたり、統合失調症を罹患したりするということがあるが、これは五感から得る情報を遮断し切れずに、記憶の形成にまで異常をきたしてしまっている状態なのではないだろうか。パニック障害に至っては、五感から過度な情報を得たときに、遮断という形ではなく、逆に鋭敏になってしまった状態を指すものではないのだろうか。統合失調症においても、五感が興奮し、鋭敏になってしまうことがあるという。人によって症状が千差万別に思えるのは、こうした過度な刺激が人によって異なることから起因するのではないのだろうか。向精神薬の働きは生化学的にはそれぞれ異なる作用を示すものの、端的に言えば、頭の働きを鈍化させるものであるといってよい。それはつまり、五感から得る情報や刺激を鈍化させることに等しいのである。このことからも、私の主張は全く外れているものではないといえるのではないだろうか。だからといって、五感から得る情報を遮断すればよいのかといえば、そのことによってのみ、治療することはできないといえる。なぜなら本当に必要なのは、五感から得る情報の遮断ではなく、そのことによって阻害されてしまった、「ここに在る。」ということの固定と安定化であるからである。さらに言えば、五感と記憶の形成の破壊の程度にもよるが、一度壊れた五感を持つ人間と、コミュニケーションを図ること自体が非常に難しい。「ここに在る。」という心の固定と安定化には、何らかのコミュニケーションが必要となるにも関わらず、である。その一方で、現代の精神医学は確かに生化学的分析に偏重しつつあるものの、特にうつ病に関しては、認知行動療法というものが導入され、活かされつつある。認知行動療法とは端的に言えば、自らの認知の歪みを直すものだというが、私自身の見解から言うと、外部からの刺激をいかにして和らげるか、といえるものである。認知行動療法の一種であるマインドフルネスは、禅における瞑想に近く、「今、ここにいること。」を何より重要視し、五感の感覚を研ぎ澄ますものである。このことからも、私の主張は理にかなっているといえる。しかしながら私のこの記事は、認知行動療法やマインドフルネスといった治療を自ら実践することをお勧めするものではない。精神科医の先生方は、患者にとっては自身のことを充分に観ていないと思われるようなことがあるが、先生方は患者の観ていない患者自身の状態をよく診ている。安易に認知行動療法やマインドフルネスといった治療行為を実践するべきではない。それ相応の準備と覚悟や責任といったものが伴わなければならないものである。私はただ、このことにおける当事者として、現代の生化学的分析に偏重しつつある精神医学に、本当にささやかな一石を投じたいと思った次第である。
現代における精神疾患について
痛覚・身体性・情動の認知
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