私は以前の記事で、「現代における精神疾患について」というタイトルの記事を書いた。そこで主張したことは、存在者とは相対的に存在していて、そのようにあるからこそ、人間においては合意すること、特に共感するということが、自己の存在を存在として存在させるために必要である、ということだ。このことは私の最初の投稿記事である「人間と地球」での主張でもある。この主張は相対主義的と捉えることができ、私も自らの主張は相対主義的である、と「人間と地球」で記した。その主張は、事実や真理といったものを否定するものだと捉えられることがある。それは特に、異なる価値観を持つ集団間において、ある集団内で問題視される行動がその他の集団では問題視されないというような、倫理的問題を引き起こすものだともいわれる。端的に言って、この指摘は妥当である。私の相対主義における主張は、価値観のみならず、存在するということ自体が相対的であるということだが、それでもこうした倫理的な問題は孕んでいる。例えば日常において、悪と呼ばれるものはなんだろうか。ゴミを捨てること、誰かの悪口をいうこと、誰かを虐めること、人の物を盗むこと、人を殺めること等々。これらに共通していえることは、誰かまたは何かの存在を脅かすことである。ゴミを捨てるということは、自然やそのゴミが捨てられた場所という存在を脅かし、誰かに悪口を言うなどして虐めることは、その虐められる者の存在を脅かす。人の物を盗むということは、その所有者の存在を脅かし、人を殺めることは、殺められた者の存在を否定する。以上のような行為は、相対的な存在者にとって、またそのように存在するならば、あってはならない行為である。相対的に存在するということは、各々が互いになんらかの関わりを持って生きているということである。各々が相互に関わりをもって生きているなかで、誰かの存在が脅かされるということは、その誰かになんらかの形で関わりのある者の存在を脅かすことになる。このことは相対的に存在する者にとって、等しく同様のことである。誰かの存在を脅かすような行為は、悪として捉えられるということである。悪が誰かの存在を脅かす一方で、善とは、誰かまたは何かの存在を肯定するものであるといえる。ゴミを綺麗に片付けること、誰かに気を配ること、人を助けること等々。ゴミを綺麗に片付けることは掃除した場所を肯定し、誰かに気を配ることは、配られた者を肯定する。人を助けることは助けられた者を肯定する。それは相対的に存在する者にとって、賞賛に値する行為である。存在を肯定するという行為は、相対的存在にとって、注目に値する行為であり、善を為すことはその行為者の存在も肯定する。このことは前記事の内容に関連しており、そこでの善とは、共感することである。共感するということは、互いに同じような感情や考えを抱いていることに合意するということであり、互いの存在を肯定するものである。その一方で、存在を肯定することで注目されるということは、相対的存在にとっては必ずしも善ではない。善とは存在の肯定であり、悪とは存在の否定である。存在を肯定することで注目を集めることは、他の相対的存在にとってはそうした機会を奪われることになる。相対する者は複数存在し、またそのようにある世界においては、このように誰かにとっての善が誰かにとっての悪になる。それは何が善で、何が悪かという、その定義が変わるということではなく、存在者の存在する立ち位置によって変わりうるということである。それは前記事に記したように、自らがどこにいるかということが何かとの対比であり、そのような世界において存在者が安定的に存在することが難しいということと同義である。だからこそ、人間社会においては、誰かと何かについて合意なり、共感なりといったことが求められるということだ。では、相対的に存在者は存在するという世界において、本当に絶対的ともいえることは、はたして存在しないのだろうか?私は「人間と地球」において、そのようなものは存在しないと記し、代わりに暫定的絶対主義というものを挙げた。しかしながら、今ではこれは逆なのではないかと思うことがある。相対主義において、本当に絶対主義は成立しないのか?むしろ絶対的な「何か」があるからこそ、相対的に「何か」が存在することができるのではないのか?つまり、相対的に存在する存在者や存在するということは本来、暫定的なものであり、またそのようにあるからこそ、絶対的に「存在しようとする」何かがあるといえるのではないだろうか?だからこそ、合意や共感といったことが、そもそも可能なのではないか?続きは別の機会に書こうと思う。
善悪と存在しようとする意志
存在・認識・倫理の基礎論
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