誰かへの嫌がらせや悪口に発揮する知性は、知性と呼ぶべきではない。それはたんなる悪知恵だ。残念ながら悪知恵も時には必要な場面もあるが、現代社会ではそれがあまりにも蔓延しており、行き過ぎている。ほとんど社会病理と言っていいレベルのものだ。
SNS上で「頭の悪い投稿」を見かけるようになり、この1、2年で著しく増加した。だが、それらをよく読むと、稚拙な論の中で政治的極論へ誘導しようとする意図を持つものが多い。真っ当で影響力のある投稿ほど、こうしたクソリプを多く受け取っているようだ。
クソリプには、人格攻撃や論点逸脱、または意図的ミスリードなど、さまざまな手法がある。クソリプは無視することが一番であるが、いかに無視するのかが重要だ。たんなる沈黙も良いが、クソリプに対して無頓着に、自らの意見の主張を続けることも大切だ。
これらのクソリプは、公共圏における議論を著しく妨げている。市民レベルで議論することは、民主主義の基本である。それらを妨害し、また誘導しようとするクソリプは、民主主義の根幹に介入し、その政治の根底となる世論を制御しようとする試みだと言える。
知性とは人間性を示す指標の一つである。だからこそ、知性は倫理と結ぶものであって、悪知恵に用いることは避けるべきだ。防御としての悪知恵が必要な時もある。だが、悪知恵を必要とする局面に陥らないようにするのも、知性の在り方だ。
クソリプをたんに「頭の悪い投稿」と断じるのか、それとも己の知性と知的体力を総動員して、クソリプに負けない気概を見せるのか。クソリプのように他人の知性を馬鹿にするのではなく、自らの知性をもっと発揮することに重きを置きたいところだ。
この一連の投稿を読んで、「お前に知性があるのか?」と疑う者もいるだろう。それは見えざるものがあるからだ。知性とは変化への態度だ。それは保守と革新に二分され、この二つの共通基盤として観察と分析がある。その要は可視化と言語化だが、言語は多種多様であり、不可視なものは実に多いのだ。
語りえぬものについては、語れるように語らねばならない。尊重の態度は必要だが、行き過ぎた敬意は危険の元だ。
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