独断と才能について

考察メモ

発達障害のなかで分類される特徴の一つにギフテッドがある。こうした分類は、宗教による弱者救済と同じ構図をしてはいないだろうか。つまりそれは、他者評価による他者評価からの救済である。
発達障害とは、主に若年者が示す障害であり、社会的影響力のある文脈の中での適応の著しい難しさを示し、かつその難しさによって本人が日常生活に支障をきたすときに生じる、個人的特徴である。
発達障害の特徴は、個々人によって千差万別と言っていい。だが、その障害とされる特徴に共通するものは、周辺環境との協調の難しさである。この難しさは、容易に解消されないものである。
発達障害の特徴が千差万別であるのは、個々人の特性と、その特性が表出する周辺環境に起因するものだ。個々人の特性も、周辺環境そのものもそれぞれ異なる。両者がいかに作用するのかも人さまざまだ。
また発達障害が往々にして若年者に限定されるのは、この障害がその名の通り個々人の発達に起因するという考え方があるからだ。若年より上の世代は、個々人の発達の中で社会に適応してきた、または若年のうちにそうした特性が見られなかったという訳だ。
発達障害とは、この適応の難しさを社会システムによって包摂するために作られた概念だといえる。社会システムが社会的文脈の総体であって、そこに適応することを求める限り、適応の難しさを包摂することは、そのシステムの秩序を担保するものである。
だが、発達障害という分類は比較的新しい概念だ。先述したことは、この分類の登場や周知以前に若年だった者を、どのように社会は包摂するのかという課題を提示している。
また、その診断基準も様々である。米国精神医学会のDSM、WHOによるICD、また文部科学省による判断基準など、多岐に渡る。しかし、基準や運用を画一化すると、今度は包摂性が損なわれてしまう。
発達障害そのものへの偏見や差別も生じている。社会的包摂のために発達障害という特性を作り出した結果、今度はその特性が差別の対象となってしまっている。
その中で、ギフテッドとは、ある特定の分野において、その分野の中で特に優れていると評価される能力を発揮する者のことだ。知能指数はこの評価指標の一つにすぎない。だが、これは差別や偏見から免れるための、障害の中での優位を示すものと化していないか。
社会的包摂のために作られたシステムによって、その包摂から免れることで、社会に包摂されようとする構図になろうとしてはいないだろうか。
才能とは、それが評価されない限り、可視化されることはない。つまり才能とは、社会性を帯びた他者評価である。発達障害の診断も他者評価である。このような評価とどう向き合うか。私はむしろ、それらを乗り越えるための独断力が求められると思う。
一方で、この独断力は他者評価に揉まれながら身につくものだ。独断力とは、独自の判断力と価値観のことであるが、他者評価に依らない判断力も価値観も成立しえない。価値とは、比較対象があって生じるものであり、判断は何らかの価値に基づくからだ。
他者評価を乗り越える独断力とは、他者からの評価に、一方的に左右されない判断力のことだ。他者からの評価を受けながら、それらを揺さぶる影響と力を発揮する独自の判断力のことであり、この双方向性を自覚することが、独断力の発揮にも、また倫理的にも重要だ。

コメント