右派と左派について

社会・政治・経済構造

隣の家の芝が青く見えるのは、自分の家の芝が青くないからだろう。自分の家の芝を育てるか、隣の家の芝を燃やすか。現代で圧倒的に多いのは後者だ。日本では、社会の閉塞感、経済の停滞、失われた30、40年などと言われるが、当たり前だと思う。

芝は青くなければならない。ここで芝は青くなくていいと思うこともできる。それは枯れた芝を意味し、老いを受け入れるということだ。芝を別の色に染めることは難しい。呼吸や光合成が阻害されてしまうからだ。それは自分ではない誰かを演じることと同義だ。

皆が青々と生い茂る芝を目指すとき、辺り一面には草原が広がる。それは一枚絵としては美しい。だが、どこからが自分の家の芝で、どこからが隣の家の芝なのかがわかりづらい。もちろん、柵があればわかる。この一枚絵を目指すのが左派のグローバリズムであり、柵を立てるのが保守派だと言える。

このとき、生い茂る芝とは人の生き方、人生観を表している。人は青々と生き、また老いていく。これは人類の普遍だ。左派のいう価値観は多種多様だが、この普遍に収束すると言っていい。だが、人生観は多種多様であり、むしろ柵を建てる方が多種多様さを確保できるとも言える。

柵を建てれば多種多様さを確保できるが、ここで、いかにして人類の普遍は失われるのか?また失われているのか?現代社会において柵の高さは低い。隣の芝の色が容易に見えるとき、それを燃やそうとすることは一枚絵への無意識の反抗ではないか。だが、囲む柵が高ければ、見える地平も空も狭いだろう。