情報の流れや人、物の流れを掌握すれば、人はどのように洗脳されるのか。たとえば多国籍の料理に触れれば、他国への興味や関心が生じる。料理のみならず、動画や音楽などのエンターテイメント、国内に住む多くの日本人にとって、それらは誰かが持ってくるから、触れることができるものだ。
特に海外のものであれば、語学力無しに、自分の望むものを独力で見つけることは難しい。ネット上で見つけることは簡単だと思う人もいるだろう。だがその情報の多くも、誰かが意図した見せ方を決めて発信していることに留意する必要がある。これはネットのみならず、メディア全般の話だ。
その一方で、何かしらの何かを人に見せたい時は、よく見せようとするのが人の性だ。メディア全般において汚いものを映すことはない。汚いと思われるものでさえ、なんらかの形で美化して映すことがメディアでは奨励される。汚いものは映す側も見る側も、誰も率先して見たくないからだ。
この時、映す側と見る側には、綺麗なものを見たいという、ある種の力学が働いている。ここでの綺麗なものが何かといえば、自分にとって受け入れ可能なものである。それは感性によるものかもしれないし、単に理解可能なものかもしれない。
感性による綺麗なものは美であり、理解による綺麗なものは物語である。往々にして、汚いものを美化する時、そこには何らかの物語が与えられる。いわゆるポリティカル・コレクトネスは、このような綺麗なものに対する力学を象徴する側面がある。
物語の不在は汚いものとして、受け入れ難いものとなる。物語とは、語れる物があるから、物語である。それは人の数だけある。だが人の性として綺麗なものを見たい、人の数だけあるなら、より綺麗な物語を見たいのである。
綺麗な物語とは、理解可能または受け入れ可能なものでなければならない。このことは、王道サクセスストーリーだけが好まれるわけではなく、サスペンスやホラーも好まれる理由だ。より凄い成功談またはより酷い失敗談を見たいと望むのだ。
その一方で、より平々凡々な物語を望む人もいる。より凄い成功談や酷い失敗談ばかりでは落ち着かない。より安寧を見出せる物語が望ましく、またそれが良いのだ。このように物語は、綺麗なものにも汚いものにも、どちらでもないものにも、語れる物という形を与えることができる。
語れるということは、誰かがそれを聴き、何かしらの反応があることから、成立する。このことを洗脳という側面から見れば、物語は非常に強力な道具となりうる。一方で批判的思考は、このような洗脳に対する抵抗力となり、対抗策ともなりうる。
批判的思考は、物語という情報に対する対抗策になりうる。しかし、その情報がどこから生じるかといえば、人と物の流れだ。情報元を掌握してしまえば、それまでだ。そしておそらく、現代社会において起こりつつあるのは、すでに情報の掌握ではなくて、情報元の掌握だろう。
人や物の流れ、情報の流れを掌握することは、その流れの中で生きている人間を掌握することと同義だ。たとえば家族や友人、恋人、同僚などに接するとき、共に食事をする時や仕事の打ち合わせ等、日常生活において物や情報に触れて為される全ての意思決定を、完全に自分のみで下すことは可能だろうか。
食事においては食す物や給仕する者を要するのみならず、他者からの情報も影響する。打ち合わせでは情報の流れが意思決定に大きく関わる。これらをすべて掌握すれば、誤解を恐れずに言えば、その流れの中で生きる人間を洗脳することも可能となる。
本来的に洗脳は、広義の意味の教育のことを指す。より狭義の意味ではGHQによる、戦後の日本国における義務教育等への介入がある。だが教育とはこれもまた本来的に、ある種の洗脳という側面を持つ。ある種の、とはどういうことかというと、教育の持つ目的がどこに向いているのかに関わっている。
教育による洗脳はより狭義の意味を持つ。端的に言えば、社会治安の形成と保持を目指すものだ。一方で洗脳に依る教育とは、社会治安の維持形成から逸脱するものだ。前者は洗脳を教育の手段として用いており、後者は教育を洗脳の手段として用いる。
これは目的の違いを示す一方で、この目的の違いはどの時機にどの立場から見るのかによって大きく変わる。戦後GHQによる教育への介入は、大日本帝国に占領された国々や敵対した国々から見れば、社会治安への貢献と脅威の無力化であり、日本国から見れば、戦争責任と防衛力の無力化だ。
平和国家日本の誕生は、このような狭義の意味での、ある種の洗脳ともいえる教育の上に成立している。それが戦後の日本国の平和維持と貢献に多大な影響を与えている。GHQによる日本国における教育への介入は、いつどの観点から鑑みるかによって、大きく見方が変わる一例だろう。
