「バカは選挙に行くな」が成立するならば、少なくともその選挙における「賢さ」というものが想定されるべきだろう。そのような「賢さ」は誰にとっての賢さなのだろうか。それは民主主義とは言わない。民主主義は多数派だからそこに賢さがあるわけではない。少なくとも、それを社会的な標語とするべきではない。
しかし真に賢ければ、バカを凌駕することができるだろう。日本国において、また世界において、現状、凌駕しているかどうかはわからない。そもそも、何が賢くて何がバカなのか、僕にはまったくわからない。世間はもっと広くて狭く、複雑で単純でもある。
何が賢く、何がバカかという問題と、誰が賢く、誰がバカか?という問題は別物ではないだろうか。何かの賢さや愚かさを問う時、この「何か」は単なる情報であり、そこから漏れる視点は、誰が発信しているのか?という、その情報の発信元だ。
一方で誰かの賢さや愚かさを問う時、それはその誰かが自らの言動によって発する情報を元に問われる。何かの賢さや愚かさという問いは、個々の発信者という文脈を切り取ったものと言える。以下に仮定の例を述べる。
たとえば、教師が生徒を怒鳴ることは、教師という文脈から理解できることだ。しかし、ここから教師という文脈が取り除れると、「おっさんやおばさんが子供を怒鳴った。」という、より抽象性が高く、状況の具体性に欠ける情報が生じる。教師がいなければ生徒はなく、その逆も然りだ。
多くのポリコレやコンプラに関する問題は、おそらくここに起因する。秩序ある社会にとって、ある一定のルールを策定することが重要であり、ルールとは関係する者にとって、問題が起きた時に不平の無いように解決すること、またそれを遵守することで予め問題を回避することを目指すものだ。
しかしルールとは、本来的に皆にとって不平の無いように策定するため、個々の発信者という文脈は取り除かれる。「おっさんやおばさんが子供を怒鳴った。」というものが、教師としてなのか、近所のうるさい人達なのか、という文脈が決定的に見落とされる。
このように、皆にとっての公平を追求すると、何が「賢さ」であり、何が「愚かさ」なのかがわからなくなるのである。私の言っていた区別は、こういうことである。
逆説的ではあるが、だからこそ、このようなことわざが言われてきたのかもしれない。 罪を憎んで、人を憎まず。
