愛着とADHDの問題はなぜ混同されやすいのか。それは「安全な反応」の扱い方の違いにあるのではないか。愛着の問題とは与えられた刺激に対して、いかにして安全に“反応する”のかという点に尽きるのではないか。
ADHDでは与えられた刺激に対して、いかにして“安全に”反応するのかという点である。与えられた刺激に対して、内面的に反応するのか、外面的に反応するのか、その傾向の違いであり、前者は他者との関係という情動的安全、後者は行動・制御における安全である。
愛着とADHDを比較した時、障害とされる行動が表面的に酷似している。この類似性は例えば、愛着の問題では時間的連続性が損なわれること、ADHDではワーキングメモリの欠如として現れる。前者が愛着由来なのに対して、後者は行動制御由来の問題だと言える。
また、ADHDでは評価される立場にある際、過集中が起こることがあるが、これは引き受ける行動制御に対しての消化や応答と捉えることができる。この制御が許容範囲かどうかで実行機能の切り替えや情動調整に異なる影響が出るとも言える。
ADHDの表出自体においては、他者との関係の有無は問題になりにくい。1人でも誰かといる時でも表出しやすいのがADHDである。愛着の問題では条件が変わっても同種の構造を持つ反応行動が表出し、その内面に重きが置かれやすい。
対してADHDは条件依存の傾向があり、表出する行動に重きが置かれやすい。一方で条件が変わっても同種の構造を持つ反応行動が出ることと、ある条件下で特定の行動反応が出ることは互いに相反しない。だから、この両者は混同されがちなのではないだろうか。
また、「愛着の問題=愛情の有無の問題」や「愛着の問題=母親との関係」ではない。愛着の問題とは、他者との安定した関係形成の経験に関する問題であり、親の愛情の無さと即断するのは限定的な状況を切り取っている。母親との関係は多くの人にとって、「人生最初の人間関係」だから起きる誤解だ。
愛情があってもコミュニケーションの齟齬が起きることはある。それは夫婦や恋人のみならず、親との関係においても同じだ。しかも、子供対大人である。この視点が欠けると単なる愛情の無さと言えない場合もあり、言える場合もある。さらに言えば、親子の関係以外もありうるだろう。
単なるコミュニケーションの齟齬が愛着の問題を引き起こすわけではなく、齟齬が起きた時、いかにして、それが対処されたのかではないか。例えば話し合いによってか、それとも暴力か。そして結果的に、いかにして、その対処を引き受けたのか。
暴力を経験した者が等しく愛着の問題を抱えるわけではない。話し合いを経て、他者との関係はズレることなく安定したのか。暴力を経て、傷をどのように引き受けたのか。ズレや傷によって自責の念に駆られたのか。それとも齟齬として手放したのか。その時に何を選択することができたのか。
単なる自己責任論を言っているのではない。問題が起きた時に、助けを求めることはできたのか、他に支持や心の拠り所はあったのか。独力の解決を迫られた時、その問題はその時の自分にとって、どれだけ引き受けることができたのか。
愛着の問題が表出する時、これらのことが問われているといえるのではないだろうか。
精神疾患における代表的な診断基準にはWHOが作成したICD、米国精神医学学会が作成したDSMがある。日本における精神疾患の診断基準にはDSMが多用される。精神科の受診者は年々増加傾向にあるが、これらの基準を厳密に参照すると、実際の患者数はおそらく激減するのではないか。
全ての精神疾患において、疾患や障害の有無の最も根本的な分水嶺は、日常的行動が社会生活を営む上で著しい支障となっているか否かだろう。精神医学の発展の歴史において、精神症状の主因は先天的な性質や器質が強いとされてきた経緯がある。
現在の地球上の人口数は80億人以上おり、各々がそれぞれの身体的、また性格的個性を持っている。現代における精神科の受診者数の増加を鑑みると、先天的性質や器質が増加したと考えるより、社会的影響が強く出ていると考える方が自然だ。
先天的性質や器質が増加したとすれば、その傾向が顕著に可視化されてもおかしくないが、そのような兆候があると言えるだろうか。またあったとしたら、その兆候がどのように地理的距離を経て出てきたのか。説明がつきにくい。
一方、後天的性質や器質に主因の重きを置くとき、ある時代における特定の社会的影響が強く出る可能性がある。現代の診断基準においては、先天的性質や器質のみを対象としているわけではなく、どちらかに寄っている訳でもない。
精神疾患や障害は、先天的原因と後天的原因の相互作用によって発症する。これは診断基準を厳密に適用した時の線引きの置き方問題に直結する。ある器質や性質を持つことが特定の精神疾患や障害と言えたり、言えなかったりする。
診断基準とはそもそも、例外的事象を排他的に判断するものだ。その基準の適用範囲が広がる時、例外的事象は例外とは言いにくい。その例外が精神疾患であるとき、これはもはや社会病理ではないか。
例えば、ヨーグルトの消費期限が2月29日(もちろんそんな日付はないが、仮定の話として)だとして、2月28日から0時を過ぎると途端にヨーグルトが腐って食せなくなるということはない。
精神疾患の診断基準における線引きの難しさとは、この消費期限の日付の置き方と類似している。ある日付の期限を超えた途端に食せなくなる訳ではないのと同様に、ある診断基準の閾値を超えたから、精神疾患と即断できる容易さがある訳ではないということだ。
先述した社会病理とは、この即断性に起因するのではないか。それはつまり、ある事象を異常と即断することが精神疾患の発症や診断の増加と関係しているのではないか。問題は異常とされる事象が多発しているということではなく、その事象に対して、どのような対処がなされたのか、ということだ。
精神疾患とは診断基準に基づく限り、社会制度の一環である。その診断基準は異常値の定義として機能している。だが、それよりも他者の介入のきっかけとして機能するべきではないか。精神疾患とは異常値の記述ではなく制度上の記述であって、その診断は介入の制度として機能するべきではないだろうか。
