社会と知的障害について

考察メモ

知的障害を持つ人の知能は劣っていると思われることが多い。率直に言って、彼らの知能は劣っているというより、正常とされる社会的文脈から大きく逸れているというのが実態に近い。健常とされる人と同様に、彼らにはそれぞれの論理があって、世界観がある。

健常とされる人のみで構成される社会があるとする。皆が障害を持たない社会だ。障害が無いとき、健常とは何を指すのか。健常とされる者でも、病気で身体の一部を失ったり、老いで認知機能が衰えることもある。健常とされる人のみで構成される社会では、あってはならず、排除されてしまう。

しかし、先述した観点に立つと、彼らの存在は健常とされる者にとって、単なるリスクヘッジにすぎない。障害を持つ者を保護することは、自分達が障害を負った時の安全弁と言っているに等しい。

彼らの知能が劣っているとして敬遠することは、社会を健常という狭い文脈に閉じることだ。異質なものを異常なものとして避けるとき、社会は均質化する。皆、似たような格好をして、似たようなことをして人生を終える。

均質化される社会は、どこかに異質なものを見出す。異質なものがなければ、健常との見分けがつかないからだ。見出された異質性は異常とされて排斥される。社会の均質化は、社会を収縮させてしまう。

社会の大部分が健常とされる知能によって構成されるとき、知的障害はその対極にある。均質化すれば意味を失い、健常という文脈に閉じれば閉塞し、排斥すれば収縮する。人生の意味の無さ、社会の閉塞感、未来への希望の欠如。閉じている以上、当然の話なのだ。

現行の福祉の課題はここにある。障害を持つ者を、理解の難しい者として理解することで、忌避してしまう。なぜそうなるのか。それは障害を持つ者が異質で怖いから、理解可能な枠に当てはめることで安心できるからではないか。

わからないものは怖い。これは障害を持つ者に対してのみならず、全ての他者に言えることだ。だが、理解できるから怖さが消えるというのは、単なる錯覚である。理解できていたと思って接していた者が、実は全く違っていたというのはよくある話である。

怖さを消すのに、相手を理解する必要はあるのだろうか。むしろ理解を前面に出すというのは、往々にして押しつけがましいとも言える。ところが、他者に対して怖さを感じるとき、理解することで安心を得ようとするのが、知的態度とされているように思える。

しかし、これでは知的態度ではなく、怖さを誤魔化すために自らの優位性を示すものとなっている。理解の仕方が防衛的にすぎるということはないか。防衛的距離を取りながらも、関係性中心の理解をするということはできないのだろうか。