現代において愚かさや賢さとは、集団として結束するために用いられる言葉になっている。SNS上での右派vs左派の対立、学校や職場でのいじめなどにおいて、愚かさと賢さという言葉は、あらゆる形で利用される。
これらの言葉は、ある特定の個人や集団を指して用いられることで、集団意識を形成する。例えば、一対一の関係で用いられるとき、相手の愚かさを指摘することで自らの賢さを主張でき、相手を同化、または排除することが可能だ。
相手の同化に成功すれば集団形成や拡大に繋がり、排除できれば自らが属する集団を保持できる。では、愚かさも賢さも、集団形成や保持のための言葉なのか。無人島で一人で暮らすことを考えるとき、そこに愚かさや賢さはあるか。
二人以上の人間がいて、初めて愚かさや賢さという言葉を用いることができはしないか。独り言で自らの愚かさや賢さを説くこともできるが、それは集団に属した経験があるからではないか。無人島で一人、全く新しいことに挑戦しても、何が愚かで賢いかはわからない。
それでも、事後的により良い方法を見つけて、過去の試みが愚かだと思うことは一人でもできる。愚かさや賢さが個人の内省や改善のための言葉であるとき、それはより良い方法を求めるものだ。
だが、一人で内省や改善を試みるより、他者の目があると効率良くできる可能性が上がる。より良い方法を求めて複数人で協力することは、集団形成に繋がる。それは一対一から集団対集団の関係に発展する。
集団対集団で愚かさや賢さを説いても、各々が積み重ねてきた歴史や方法論がある。そこには愛着や信頼があり、集団にとって結束力の源と言える。それは集団と属する個人が生き延びてきた方法論に序列を持ち込む。より良い方法を求めてきた結果、その過程が否定されることは、争いを生む。
このような集団レベルで生じる対立は、個人レベルまで降りてくる。現代におけるSNSの炎上やいじめといった現象は、その一例ではないか。それは右派vs左派といった政治的対立に留まらず、学校や職場におけるいじめにしてもそうである。いじめは、集団対個人であるから異なるように思える。
だが、異なる方法論を持つ異質な存在としての個人は、集団にとって対立する脅威だ。例えば本人は感じていなくても、往々にして、いじめを行う「強者」は弱いままで社会に許容される「弱者」を許せないことがある。それは自らが「弱者」として許容されなかった歴史があるからだ。
各々が異なる歴史や周辺環境を携えて生きている。それらを切り抜けてきた方法も皆、異なる。全く同じということは、ほとんどないだろう。愚かさや賢さという言葉は、これらの異なる背景を一本の軸上にまとめてしまう。一方、その評価軸が相対する対象はバラバラではないだろうか。
愚かさや賢さを問うとき、その評価対象の方は本当に比較可能だろうか。個々人の内省や改善、またより良い方法を求めるなどの目的があれば、評価軸の対象は比較可能だ。しかし、集団対集団、または集団対個人であるとき、前述のように一本の評価軸で問うことはできるだろうか。
一本の評価軸上に載せて評価するにしても、評価軸の明示と比較可能な対象であることが必要ではないか。現代のSNSにおける対立やいじめなどは、この明示と対象の選別や、本来そこに至るのに必要な対話をすっ飛ばして相手を評価している。暴力的な評価行為だと言えるのではないだろうか。
