指向性について悩むとき、手がかりは事後ではなくてすでに事前にあるのではないか。つまりそれまでの自己の歴史にあって、それを見つける、または自覚することを要するのではないか。
これは例えば多くの科学理論の発見や工学的発明にしても、歴史的に見て過去の産物が重要な参考になっているというところからの観察とそれによる直観だ。
科学理論の発見や工学的発見は集合知である。このことと、自己の指向の発見の為に自己の歴史を辿ることには違いがあるように思える。だが、集合知も自己の歴史や経験に紐づけることができなければ、知の適用はできない。
資源は自己の歴史にしか無いというのが実際ではないか。だから、この持論の根底を科学哲学または解釈学に求めても、判断のための資源へのアクセス問題と、その資源が必ずあるかは別の問題のように思えて、そうではない。
私の悩みは、過去の蓄積からその資源をいかにして取り出すのかだ。記録や記憶を辿ることで、アクセス問題はある程度解決できるが、問題はその後だ。それはアクセス問題よりも、その後の選別と整形の問題である。
判断のための資源の選別と整形の問題において、その際に指標が必要となる。だが、その指標はどこから持って来るのか。自己の歴史を辿るとして、その指標を決めるための資源の選別と整形はいかにするのか。ここで無限後退が生じる。
ここで鶏と卵、どちらが先かという議論を持ち込む。鶏はその定義内容を意識しなくても、鶏として直観的に認識される。鶏の卵が成立するには、鶏が先立たなければならない。
鶏として発現した個体があって、鶏の遺伝子抽出が可能だ。その遺伝子が卵に含まれることで、鶏の卵として認識される。だが、卵が遺伝子を含むことと、鶏として発現することは同義ではない。
このとき、判断と指標において、発現した個体(鶏)とは判断に当たり、指標は遺伝子(またはそれを含む卵)である。無限後退とは、判断と指標を巡る認識上の問題である。
選別と整形における無限後退とは、判断の選別と整形の指標を過去に求めるとき、その指標の選別と整形にも、指標が必要になるということだ。その指標の選別と整形をまた求めるためと、延々と続いていく。
この無限後退と、卵と鶏の問題はどちらも認識上の問題ということにおいて同種の構造を持つ。先述したように鶏の卵が成立するには鶏が先立たなければならないのと同様、判断と指標においては、判断が先立たなければならない。
判断が先立って、初めて指標が浮かび上がる。修正可能性に関しても、修正する対象となる判断がなければ修正不可能ではないか。また、修正を自覚的に行うには、判断に対して自覚的でなければならない、ということが言えるのではないだろうか。
