人間的な賢さとは、馬鹿の中で上手に馬鹿らしく生きることではないか。ところが社会が重んじる「賢さ」は、高学歴や高IQなど、論理的思考を要する。さらに社会の根幹には法体系という論理の極致がある。一方、高学歴や高IQは母集団に対して、ほとんど常に少数派で、「馬鹿」が多数派だ。
民主主義が最良なのは多数派の正しさではなく、皆(=多数)で決めたから、より公平(=妥当)というものだ。最悪なのは、論理を扱う「賢さ」によって社会の様々な基準が作られ、それらの基準に照らすと「馬鹿」(=多数)に従うことを避けられないという点だ。
だから、社会に生きる人間は論理的思考を重んじながら、「馬鹿」の中でいかに「馬鹿」らしく生きるかを求めざるをえない。母集団が大きいほど、「馬鹿」の絶対数は増える。一方、人間は生きるために何らかの形で協働せざるをえない。論理とは一つの共有可能性で、その道具にすぎない。
人間が生きる上で協働を要することは、論理という共有のための道具の重用が賢さを示すことに繋がる。だが、それを重用するほど、相対的に「馬鹿」が可視化される。論理の力を用いる以上、人間が「馬鹿」さから逃れることはない。それより「馬鹿」の中で上手く「馬鹿」らしく振舞うかを考える方が良い。
