言葉の余白を見つめながら言葉を紡ぐこと。言葉の余白とは文章表現において、読み手と語りの対象との距離の調節に他ならない。この距離の調節によって、語り手と読み手の距離も調節することができる。文章表現の仕方によって語りの対象と読み手が接近したり離れたりする。読み手と語り手の間に生じる親密さとは、この文章表現での距離感と情動の距離感が一致するときだろう。文章表現における距離の調節によって、なんでも書けるわけではないし、そうあってはならない。
ここで文章構造をいじれば、それによってすべてを記述することができると仮定しよう。すべてが記述可能ということは、あれもこれも書けるということが自明だということである。たとえば失恋してしまったとして、それはなぜか?嫌われたから?それとも最初から勘違いだったから?その傷心を日記に書こうとするとき、もし自分にとってすべてが明らかに記述できることだとしたら、それにどのような意味や必要があるのだろうか。
すべてが記述可能ということは、ある種の構造に閉じるということであり、それはすべて文章という構造内に閉じるということだ。一方で文章によって書くことのできないものは多い。失恋したとわかってしまった、心に陥没が起こったような瞬間のことを正確に記述しようとしても、何をもって正確なのかもよくわからない。そこに絶対的な答えはない。
すべてが記述可能だから書くのではなくて、むしろ、すべては記述可能でないから、書こうとするといえるのではないだろうか。
また構造の外は常にあり、外があるから内があるともいえる。どのような文章表現であれ、記述された時点でそれは文章構造という構造を持つ。その構造に内包されるものと、外にはみ出すものが常にある。このとき、内包されるものが明確であればあるほど、それは閉じた構造となる。たとえば「日本の夏は蒸し暑い、だから嫌いだ。」という文は意味が明確である。文の内容が明確に理由を提示していて、日本の夏の蒸し暑さを忌避するものだ。一方で「日本の夏は蒸し暑い、だがそれがいい。」という文は日本の夏は蒸し暑いと明示しながらも、それの何が良いのかを語っていない。語ってはいないが、その気配を提示している。ここで調節されているのが、語りの対象と読み手の距離だ。「日本の夏は蒸し暑い、だがそれがいい。」と「日本の夏は蒸し暑い、だから嫌いだ。」では前者の方が語りの対象と読み手の距離が遠く、後者は近くなっている。後者は語りの対象を直接的に明示している一方で、前者は明示していない。しかしどちらに親密さを感じるかは、読み手の経験によって異なるだろう。これが文章表現における距離と情動の、一致と不一致である。
すべてを語るのではなくて、語らないままに語るということ。それをどのように語り、どのように語らないか。そこにこそ語りの倫理があるというのが私の持論である。
