生きることと自死について

私について

死ぬ勇気がない奴は生きることもできない。自死する人は死にたいからではなく、生きたかったからだと思う。生きたいのに生きられるように生きられない。それは生死の問題ではなく、方法の問題だ。もし自死した者にとって生きられる方法があれば、生きていたのではないだろうか。

彼らには生きる勇気があったのだ。一方で自分が望む生きる方法に接続できない。自死する者は、本当は生きたいのだ。自死は本人にとって、その方法がこの世に存在しなかったということへの、命を賭した抗議であり、宣言のように思える。

彼らが命を賭してまでその抗議と宣言をするのは、まさに生きる勇気があったからこそではないか。生きる勇気に満ち溢れながら、なおその方法に接続できないことが、自死へと向かわせるのではないだろうか。

生き延びる方法などいくらでもあるという人はいるだろう。実際、その余地が残っていることもある。だが本人にとってはどうだろう。その何らかの方法を選ぶことが、その人の生を体現するものではなかったとしたら、それはその人にとって生きながらの死と言えるのではないか。

以下のような反論は、あまり意味をなさない。うつ病などの精神疾患や、孤立、経済などによる苦しみから視野狭窄になり、生きる選択肢が見えないことは考えられる。だが、それらが問題化するのは、生きる上で、ではないのか。むしろ、生きる勇気を持てなくて死ぬこともあるという反論は考えられる。

自分には、生きる勇気も、死ぬ勇気もない。

生きる勇気を持つことは、死ぬ勇気を持つことの裏返しであって、この両者を引き受けることで初めて、判断という駆動力を発揮できるのではないか。引き受けずに為される判断は、判断そのものに伴う駆動力によって惰性的に生かされるのみだろう。

このような勇気を持たない者にとっては、異質な他者が自己へと介入してくる度に、自らの判断による駆動力の弱さが浮き彫りになる。これまでの自らの人生を振り返ると、そのように思わざるをえない。

何かについて認識することは線引きをすること、白黒つけること、境界を設けることだ。生きている限り、避けることができない。人間は生きることで、常に死の可能性を引き受けている。

生きているという認識、生きるという判断も境界を設けている。指標を認識しようが、作ろうが、生きている限り、判断にも常に線引きが伴い、そして生きるということ自体がまさに判断を体現している。

人間が生きることにおいて、この判断そのものに伴う線引きと、生きることに伴う線引きがあって、後者を引き受けることが生きる勇気だ。この勇気を持つことで両者による線引きが重なり、初めて強さを増すのではないか。

異質な他者が自己へと介入する世界において、自己が世界に介入するとは、まさにこの強さを持つことによって為されるのではないだろうか。